入試現国の制覇 第8回「政治と経済の主義のいろいろ」

入試現国の制覇 第8回

忙しい高校生のための導入  

Q  現国だとか英語だとか読んでいるときに現れる「リベラル」やら「新自由主義」やら、そういう言葉の意味がわからないんスよね。だから文章の意味が取れなくなる。どういうこと? 

A  「新自由主義」は経済についてのイデオロギーだよ。「市場で競争したほうが人間の自由が守られる、国家が経済に介入すると個人の自由が侵害される」っていう価値観のこと。 

つまり人間の自由を守るにあたっては政府はむしろ害悪になるので、(スターリンやヒトラーや北朝鮮をイメージしよう)、 市場の競争にまかせたほうが「善い」という道徳についての信仰だよ。フリードマンやハイエクが主張した。 

Q  リベラルは? 

A  リベラルは経済でなくて政治についてのイデオロギーだよ。「すべての人類の人権が守られるべき。宗教や、性別や、肌の色や、親の身分に関係なく、すべの人類は平等であるべき」という信仰だよ。 

Q  政治だか経済だか区別つかないんスけど? 

ほかにも色々でてきて分からなくなるんスよね。 

A  論者の「政治の主義」と「経済の主義」と、さらには伝統的な宗教の道徳や、自分の母語のバイアスなんかが混ざりあって複雑になっているんだよ。 

Q  政治の主義。経済の主義。 

A  ひどく昔は「右」やら「左」やらいう単純な二分法が有効だったらしいんだけど、21世紀の高校生であるキミらにとっては無意味な分類だよね。イズムが百家争鳴していて混乱するよな。 

Q それがもう無理。「右」やら「左」やらいう言葉からしてよくわからないんスよね。(本当に高校生はこう言う)。そもそも経済に「主義」とかあるんスか?(本当に高校生はこう言う) 正しい経済政策ってひとつしかないんじゃないんスか? (本当に高校生はこう言う)  

A  経済政策において「科学的に真理であるたった一つの正解」はまだ見つかっていないよ。

経済の解釈は必ず政治イデオロギーから自由じゃないんだ。 

Q  経済って物理や化学みたいな整然とした科学なんじゃないんすか。だって数式をやたらに使ってるし。 

A  経済の「解釈」は科学であるより宗教だし、そして経済の「現象」は物理であるよりも天候や生態系に近いんだ。 

コイツらは複雑系で、われわれ人類は、天候、生態系、乱気流、脳内のニューロン発火の連鎖、みたいなカオスな振る舞いをする複雑系を記述するにあたっては、じつは、まだ数学を手に入れていない。19世紀や20世紀に物理で大成功した微分積分を、複雑系の記述に使うことはできないんだよ。  

Q  え? 数学って「人生の意味」以外はなんでも記述できるのかと思ってた。 

A  人類が数式で記述できる現象のほうが少ないんだよ。 

なのに、いったい、どうして、どう見ても天気や生態系よりゴチャゴチャと非線形でありそうな経済現象の記述において、 (経済はどう考えても複雑系だ)、 現在アメリカとイギリスで主流の経済学は、あんなにシンプルな線形の微分積分を使っているんだろうか? どこか不自然だと思わないか?  

Q  ん? 

A  そもそも「微分と積分で経済を記述できる」という前提からして、じつは、すでに政治的なイデオロギーなんだよ。むかしのイギリス人が「これが経済の本質であり、同時に世界の本質である「べき」なのだ」と彼らの信じた道徳を、世界に投影したモデルなんだ。 

 (イギリス学問の伝統においては経済学と哲学が融合していて、フランス学問の伝統においては社会学や人類学が哲学と融合していて、ドイツ学問の伝統においては文学と哲学が融合している) 

 「自由市場が存在する」とういイデオロギー。「個人は国家から自由だ」というイデオロギー。そして「個人は自分の意志で合理的に未来を選択できる」というイデオロギー。(民主主義のイデオロギーと同じであることに気がついただろうか?) 

 「個人、自由、合理性」」という近代の価値観を彼らは自分でも気づかないうちに世界に投影し、そして西欧の自画像こそが「世界の本質」なのだ、と自分たちで「発見」したんだ。自分たちで埋めた宝を自分たちで掘り当てるマッチポンプの真理。「自由市場」は宇宙の真理であると言うよりは「西欧人の理想とする自画像」で、それは過去のどこにも存在したことがないし、今も存在しないし、これから先も現れない。 

 たとえば「保護貿易はほんとうにイケないのだろうか?」 

Q  保護貿易はダメなんじゃないスか? テレビでもトランプさんと習近平さんがディスられまくってるし。 

A  ふーん。 

Q  うちの高校の政経の教員も、「あいつらは比較優位の簡単な計算も理解してない」とか偉そうに言って、それから戦争になるからって言って第二次世界大戦のブロック経済の話をして、だから保護貿易はダメってトランプと習近平をディスってましたよ。 

A  保護貿易がダメというのは「客観的な真理」ではないよ。 

たとえば高校の教科書でも出てくるケインズさんがいるよね、「不況の原因は生産力にたいする需要の不足なので、不況のときは政府が財政出動をするべきだ」って言った人だね。 

彼は若いときは自由貿易の信望者で保護貿易を嫌悪していたのだけど、しかし、スターリンやヒトラーやムッソリーニが台頭して第二次世界大戦の始まりそうなヨーロッパを前に絶望して、自分の信念に疑いをもつ。 

「いきすぎた自由貿易が世界を歪めている、過激な自由貿易が国内の雇用を不安定にして、よって需要を破壊する。みなが黒字だ赤字だと帳簿をつけるように世界を眺めて貨幣に踊らされている。自由貿易こそ世界平和への道だという私たちの父の世代の信念は間違っていた」と自由貿易の暴走の失敗を認めている。1933年だ。 

Q  え? 自由貿易と保護貿易とどっちがいいの? 

A 「わたしは善い社会をどうイメージするか」という政治的立場 (または倫理的立場)によって保護貿易の評価は変わるよ。 

よく言われる比較優位にしたって「政策の指針とするべき「善さ」の根拠」にはなりえない。 

比較優位は新古典派がするような「経済についての特殊な仮定」を認めた場合にのみ、「理屈に従えばたしかに数字はそうなるね」という計算だよ。同一の財を生産にするにあたって投入される各々の「機会費用を比較する」という着想だよね。だけど歴史の事実として「比較優位」を実践した国の経済はほぼ没落したし、発展した国はすべて比較優位をまもってない。 

Q  え? 

A  たとえばその最たる例は日本。つぎに日本モデルを採用したアジアの諸国すなわち韓国、台湾、香港、シンガポール、そして現在の中国。この国々は高度経済成長したときに、だれもが比較優位なんて実践してない。露骨に無視している。アメリカもイギリスもフランスもドイツも発展したときは「比較優位」なんて実践してない。フランスにいたっては先進国になったあとすら「比較優位」なんて無視してる。 

もし「比較優位」なんて実践していたら、日本や韓国や中国はいまでも「衣類の生産」しかしていないはずだ。 

日本モデルを採用したアジア諸国は、絶対優位でないばかりか、まったく比較優位ですらない「製鉄所」に莫大な税金をつぎこんだ。「国の主導で」工業化を無理矢理に促進した。韓国も中国もGDPを無視して「国が傾きかねない」レベルのカネを製鉄所にぶち込んだ。 

「比較優位」を守るなら政府は「市場を歪めて」まで工業なんかに税金を投入しないで、むしろ「政府はなにもせずに」、市場にすべて任せて、絹や綿織物だけ作っているべきだったことになる。 

新古典派の教科書だとそう書いてあるだろ。ハイテク産業の弱い国は、(だいたいの教科書ではアメリカとメキシコが比較される)、ハイテクなんてやろうとしないで、ずっとローテクの財だけ輸出してろ、ハイテクはアメリカが担当する、ローテクは途上国が担当する、ずっとその格差のある構造のままでいいじゃないか、みんなが得するんだから、という結論になっている。 

新古典派の世界観だと「市場での分配」しか記述しないので、「社会での科学技術のレベルアップ」がなぜ発生するのか説明できないんだ。生産性の上昇は「よく分からないが市場の外で起こる」ということになっている(クルーグマンですらそう認めてる)。だけど僕らみたいな素人が本当に知りたいのは「市場の中での効率的な分配」ではなくて、「なぜ社会が豊かになるか」になんだよ。 

Q  あれ? 

A そして新古典派の教科書のとおりに「比較優位」を実践した国はほぼ没落した。 

アフリカ、南米、中東。とくにブラジルやアルゼンチンといった南米が顕著であって、政府が自国の若者をアメリカに留学させて、シカゴ大学なんかで新古典派を学ばせて、ブレインとして政府で経済政策をまかせたその途端に、みんな国が没落した。ブラジルは立ち直るのに40年くらいかかってるね。 

「比較優位」は「よくできた作り話」だよ。歴史的にはまったく実証されてない。経済学の教科書も計算問題が説明されているだけで、実は、歴史的に「比較優位のおかげで発展した国」の事例なんてどこにも記されていない。実証がないものを科学と呼ぶのだろうか? 

新古典派がモデル化の際に用いている「特殊な仮定」は控えめに言っても真理であると言うよりは「政治的イデオロギー」なんだよ。 

Q  ちょっと分からない。 

A  ほかには、たとえば 

「多国籍企業による海外への直接投資は本当に良い影響を与えるのだろうか?」、 

「移民は制限してはいけないのだろうか、すべて受け入れるべきなのか?」、 

「本当に金融市場における規制緩和は現行のままでいいのだろうか?」。 

 もしキミが新古典派をベースに自由市場主義の立場を取るのなら、答えはすべて「イエス」だね。 

しかし現実を「子どもの目でありのままに見る」ならば、つまり「可能な限りイデオロギーをカッコに入れるよう努力して、理論とか学説とか無視して、本当に起こっている事実だけ観察する」ならば、多国籍企業による途上国への直接投資はオーストラリアに持ち込まれた犬がフクロオオカミを絶滅させたみたいにその国の産業生態系を破壊しているし、無制限の移民は、受け入れ国の社会を混乱に陥れているし、そして金融の規制緩和は21世紀に入ってから金融恐慌を頻発させているね。むきだしの事実じゃないか。 

新古典派は「理論は完璧なのに現実の人間どもが愚かなのだし、市場が十分に自由市場じゃないからイケない、理論は正しい、現実がおかしい」って言い張る。 

だけど、どうして現実が理論に従わなくちゃいけないのだろうか? 現実をただしく記述できていないのだから、理論が間違っているのじゃないのだろうか? 

Q  ぐむむ。 考えたくない。色んな人が色んなこと言っていてよくわからないんスよね。 

A  なら簡単に「政治の主義」と「経済の主義」とを分類してみようぜ。それからキミが自分の立場を自分の頭で分析してみればいいじゃん。現国や英語を読むときに文意が取りやすくなるよ。  大事な点は「経済の主張は必ず政治イデオロギーの表明だ」という点なんだ。 

「経済について自分だけは客観的で透明だ」という奴は全員ウソつきだ。われわれは「透明などこでもない場所」からは世界を眺められないんだ。 

  

高校生のための「政治主義」分類。 

まずは政治的な立場について。 むかしは「右」と「左」がわりと明快に別れていた、そんな時代もあったのだ。 

21世紀の高校生にとってはあまり意味がないけど一応おさらいしておこう。 

「右」というのは保守派と呼ぶ。 

「家族や地域共同体を大事にしたい」

「伝統的な価値観を大事にしたい」

「現在の産業構造を維持したい」

「現在の権力構造を維持したい」

という立場だよ。 

これは「地方在住」「高齢者」「裕福層」「政府から保護されている産業に従事している人」「権力のある立場にいる人」「公務員」そして「現状に満足している人」から人気なんだ。 

はやい話が「現在のゲームで勝ち組にいる側」だね。 修学旅行の夜なんかにみんなでやる大富豪というトランプのゲームがあるけど、あのゲームにおいては「大富豪」は「大貧民から強いカードを2枚もらえる」だろ。あのルールを既得権益と呼ぶ。 

そして現実の社会でも「大富豪が大貧民から強いカード2枚を吸い上げる」という既得権益は存在するんだ。このルールは大富豪にとっては得なルールだけど大貧民にとっては不合理な重荷だね。 

さらに現実の社会においてはトランプゲームのようには「大富豪」と「大貧民」のポジションは流動的には入れ替わらない。おおよそ親のポジションが子どもにそのまま受け継がれる。または22才の新卒採用ときに身分が固定して(大企業か中小企業か、正規雇用か非正規雇用か、または公務員か民間か)、そのまま65才まで既得権益は動かない。 

とくに日本、韓国、フランスあたりはやり直しが効かない世の中なんだ。学生の頃、つまり学歴を手に入れる高校受験、大学受験、そして新卒採用、までは流動的で社会上昇のチャンスが全員にある、だけどさいごに新卒で就職が決まると、そこで身分が固定してカーストは動かなくなる。誰もハッキリとは言わないけど日本はそういうシステムだよ。 

ひどく簡単に言うと保守派とは「たしかに局所的にみれば既得権益は存在しているが、しかし、大局的に見れば、現行の社会システムは福利厚生と公平に役立っている」と確信している立場だよ。 

 一方で「左」というのは革新派とか進歩派とか呼ぶ。 

 「個人を大事にしたい」

「多様性の価値観を大事にしたい」

「現在の産業構造を変えたい」

「現在の権力構造を変えたい」

という立場 

これは「都市在住」「若者」「貧困層」「政府から保護されていない産業に従事する人」「権力から排除されている人」そして「現状の社会に不満のある人」から人気だね。 

ひどく簡単に言うと「局所的に見て既得権益が存在するし、そして、大局的に見てもこの社会は歪んでいる、もっと善い社会があるはずだ」と確信している立場になる。 

たとえば「夫婦別姓」を考えてみようぜ。 

典型的な保守ならどう反応するだろうか。 彼らは「伝統的な価値観」や「家族と地域共同体」を大事にしたい。 

だから夫婦別姓には反対するだろうと予想できるね。 

夫婦別姓は夫婦の連帯感を損なってしまうし、子どもの名字をどうするかについて亀裂が入るかもしれない。「家族は一つ」という絆を破壊して、個人をバラバラにしてしまいかねない。それに地域に住むおじいちゃんやおばあちゃんが混乱するかもしれないじゃないか。

だから夫婦別姓には反対だ。 

典型的な進歩ならどう反応するだろうか。 彼らは「多様性の価値観」と「個人」を大事にしたい。 

だから夫婦別姓に賛成だろうと予想できるね。 

名前はアイデンティティの根源だ。女性の名字を男性に従属させることは、女性の社会的な価値を認めていないことになる。平安時代における「清少納言の娘」だとか「藤原の道綱の母」だとかみたいに、女性が本名を名乗ることが許されず、どこどこ企業で部長やってるだれだれさんの奥さん、や、どこどこ大学に合格しただれだれ君のお母さん、などのように、女性が「成功した男性の付属物」としてしか社会に価値を認めてもらえないなら、そんな世の中は許されない。

子どもだって名字なんて自分で選べばいい。どこかの夫婦が夫婦別姓を望むなら、彼ら個人の自由に任せるべきなのだ。きっとそんな事を言う。 

LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、つまり性的マイノリティ)についてはどうだろうか。 

典型的な保守なら同性婚は認めない。 

同性婚は子どもを産まない。よって彼らの結婚は生産的でないし、社会の役に立たない。そして世界中の伝統宗教や伝統文明を見わたしても、過去において同性婚を認めていた伝統宗教や文明など存在しない。 

結婚は「個人的なこと」ではない。結婚は家族を作ることであり、家族は「社会の基礎単位」だ、結婚は社会的な行為だ。 

女子高生の売春や、貧者の臓器の売買や、子どもが学校に行かずにユーチューバーとして稼ぐことなんかや、これらがいくら本人が望んだからと言って、個人の自由で好き勝手していいことでないように、「家族」の運営も個人の自由で好き勝手していいことではない。 

「家族」の運営に自由を認めだしたら、男一人に女三人の一夫多妻婚だとか、男二人と女二人の四人で1グループの乱交セックス状態で一つの夫婦と認めてほしい、それが自由だ、だとか、なんでも有りになってしまうじゃないか。きっと保守派はこんなことを言って反対する。 

典型的な進歩なら同性婚を認めるだろう。 

多様な価値観を認めるべきだし、個人の価値観を尊重するべきだ。結婚とは「当事者同士の恋愛のみ」で決定されるべきなのだし、そして「当事者同士の恋愛」とは「個人的なことがら」の極限なのだ。そこに国家が介入する余地がない。 

国家は個人の人権を守るためにあるのであって、その逆、つまり個人が国家を存続させるために存在するのではない。同性婚は子どもを産まないから国家の役に立たない、などという論理は「国家の存続のために役立たない個人は価値がない」という考えであり根本的に主従が逆転している。正しい命題は「個人の幸福に寄与できないなら国家が存在する価値はない」だ。

個人が先で、国家があとだ。他人に迷惑をかけない限り、個人の幸福こそがすべての価値に先立つ。きっと進歩派はそんなことを言うだろう。 

こういう例を挙げると私の経験上ほとんどの高校生が自分のことを「どちらかというと進歩派だ」と分類する。なんだか「道徳的に正しい感じ」がするからだ。 

しかし夫婦別姓もレズもゲイも所詮は他人事なのだ。他人の話ならだれでも「道徳的にいい感じ」に振る舞っていられる。だから、いざ、「本当の本当に自分のこと」となると、ほとんど高校生は保守派になる。 

つまり自分だけは「大貧民から2枚をもらう側」にまわりたい。 

自分だけは「大企業のサラリーマンか公務員になりたい」し、もし自分が正規雇用のサラリーマンか公務員に潜り込めたなら、「自分の年収を下げてまで非正規雇用の人たち年収を守りたくはない」のだ。「だって彼らは学生時代に努力を怠ったのか、または能力が低かったのでしょ。かわいそうだけど、私のせいじゃない」とキミは言う。 

ここまでが右と左だよ。 

ポイントは大抵の人は「道徳的には進歩派っぽいことを口にする」しかし「自分の人生となると黙って保守を実行する」という点だよ。 

若いときや親に養ってもらっている大学生なんかは進歩派であることが多いけど、自分で働き始めて家族を持つと、ほとんどの人は保守派になる。 

若いときに左っぽいことを言っていると「知的にバランスの取れた学生だなあ」と人から見られがちであるけれど、社会人のいい年齢になっても左っぽいことを言っていると「年収が少なくて出世にした失敗した人なのかな」と他人から余計な邪推をされがちだ。 

日本だと 保守が自由民主党。進歩が(一応?)立憲民主党。 

アメリカだと 保守が共和党。 進歩が民主党。 

イギリスだと 保守が保守統一党。 進歩が労働党。 

韓国だと   保守が未来統合党  進歩が 共に民主党中国には 共産党しかないね。 

だけど高校生である君らの生きる21世紀においては、もう、右だとか左だとかいう分類は無意味だね。経済の主義の分類も睨んで、もうちょい細かく分けようぜ。 

政治的な立場はアメリカだと以下のように分けるらしい。白熱教室で有名なサンデル先生に従った。 

1.共同体主義 

2.リベラリズム(または普遍主義) 

3.リバタリアニズム

(これはアメリカ流の呼び方で、ヨーロッパでは社会契約論者と呼ぶみたい。リバタリアニズムは自由至上主義とでも訳す。社会契約論主義はコントラクタリアリズム、だろうか。)

(リバタリアニズムは自由至上主義だし。リベラリズムの意味も自由主義だから、高校生は混乱するね。) 

 

(イメージとしてリベラルとは「人権と民主主義を大事にする人たち」だよ。つまり「差別からの自由」や「経済格差からの自由」というイメージ。リベラリストの実際の政治主張は「私ひとりの自由」を求めるよりも、むしろ「社会みんなの平等」や「世界みんなの人権」を求める傾向にある) 

 

(一方でリバタリアニズムは「私が何にも縛られない」というアナーキー状態を志向する。中高生に人気の海外産のゲームなんかで「一人称視点のオープンワールドで、魔王を倒すみたいな一本道のシナリオがなくて、何をするのもプレイヤーの自由」みたいなゲームが在るけれど、(よくJRPGと比較されるよね)、リバタニアリズムの理想とする世界とはあのオープンワールドなゲーム世界のイメージに近い。あのゲームだとプレイヤーは他人の車に火をつけてもいいし、銀行強盗して警察を射殺してもいいし、他人と協力して農業してもいいし、とにかく「ゲーム制作者の言うとおりに魔王を倒しに行く」以外ならどう遊んでも自由だよね。「いかにゲーム制作者の意図しなかった遊び方を見つけだすか」という課題に、西欧人はいい大人が熱中している。日本のドラクエみたいなJRPGは「ゲーム製作者」の意図したとおりにシナリオを進めなければいけないので、そこが西欧人たちの気に食わない。自分の「自由意思」が侵害されているように感じるのだ。それでJRPGを「箱庭的な操り人形だ」「自由度の低い命令されたとおりに動くだけの奴隷」といってけなす。西欧人らがオープンワールドのゲームを好むのは「ゲーム製作者の介入を排除して、自分の望むように遊べるから」だよ。「ゲーム制作者の介入」を「国家権力の介入」と置き換えれば、そのままリバタリアニズムの理想とする社会のイメージが湧くね。リバタリアニズムは極論すると自分の自由が保証されさえすれば、社会全体の公平や道徳的な正義には関心がない。貧乏人がいても気にならないし、差別されている少数民族がいても気にならない。とにかく国家権力が個人に介入しなければ、それでいいのだ。) 

と大きく分かれるらしい。サンデル先生はさらに「4.利己主義者」を加えていたね。 

利己主義者は「自分の利益になる」ならばどんな政治的立場も興味がない。つねに「自分だけが得するように」振る舞う。

それぞれ簡単に説明するよ。 

共同体主義者は「善さ」を以下のようにイメージする。 

「家族との絆」「仲間との一体感」「労働から得られる充実感」。 

 共同体主義者は「世界」をイメージするに際して、自分を中心において時間についても空間についても半径10キロくらいの円を描き、この円の中で世界が完結するとイメージする。子供の頃から付き合っている気のいい仲間たち、近くに住んでいて敬虔なクリスチャンである両親、そして愛する妻または夫と、子どもたちがいる、さらには自分が誇りを持てる企業に所属していて、仕事仲間も気のおけない友人たちだ、つまるところ、「この群れこそが自分の居場所」なのだ。「善い世界」とは「そのような世界」なのだ。

 例題問題。

移民政策や TPP のような関税フリーの貿易自由化にたいして、共同体主義者がどのように反応するか推論してみよう。

移民は地域共同体に今まで存在しなかった「異物」を持ち込むかもしれないね、異なる文化や異なる生活習慣、慣れ親しんだ「わたしの居場所」が乱れてしまう。だから「移民は反対」だ。

貿易自由化によって関税障壁を撤廃すると、安い外国の製品が市場にあふれ、結果、現在の自分の商売を破壊してしまうかもしれない。現在の居心地のいい「わたしの群れ」が時代の中で形を変えてしまう。だから「いきすぎた自由貿易は反対」だ。

つぎ。 

リベラリスト(普遍主義者)は「善さ」を以下のようにイメージするよ。 

「たった一つの原理的はルール」「平等」「多様性への寛容」 

 リベラリストは共同体主義とは「善い」の基準が違う。共同体主義の「善さ」には「私の地域とっての善さ」や「我が民族にとっての善さ」のような自己中心的なイメージがつきまとう。たとえば「我々キリスト教の社会」と「彼らイスラムの社会」との間で利害が対立したとき、共同体主義者はどうするのか?  きっと根源的な解決策は出てこない。

リベラルなひとたちは「人類社会に普遍的にあてはまる原理的な善さ」を目指している。歴史上のいつの時代であれ、地球上のどこの文化圏であれ、しゃべっている言語がどんな言語であれ、そして信じている宗教がどんな神様であれ、肌の色が何色であれ、そんなものは関係ない。かならず全人類にあてはまる「普遍的な善さ」があるはずなのだ。公平であり、誰も排除せず、私の権利も侵害されない。「善い」とはそういうことなのだ。 と彼らは信仰している。

 例題問題。

移民政策やTPPのような関税フリーの貿易自由化についてリベラリストはどう反応するだろうか。

移民は社会の多様性を増すし、貧困国の困っている人々を助けることにつながる、だから「移民は賛成」だ。

自由貿易によって安い外国製品があふれることは、たしかに短いタイムスパンで考えれば、社会を一時的に混乱させる。しかし大局的に見るならば、結局は社会全体の利用可能な富は自由貿易によって増加する。

たとえば産業革命を考えよう。たしかに短期的には機械は職人たちから仕事を奪い彼らを貧困においやったが、しかし大局的に見れば、機械革命は以前より多くの仕事と富とを社会に生み出した。だから自由貿易によって経済規模が巨大化することは歴史的な規模で判断すれば「道徳的にいいこと」なのだ。 と彼らは言う。

つぎリバタリアンは「善さ」を以下のようにイメージする。 

「この私の自由意思がだれにも邪魔されない」 

 彼らはリベラリストのような「時間と空間を超越した普遍的な善さ」なるものを疑う。 

古来「普遍的な善さ」を主張した者はみな大量殺人鬼になった。キリスト教の歴史とは「敵に寛容であるべき」という教義の解釈をめぐり不寛容に殺し合ってきた歴史だし、ヒトラーだってスターリンだって「普遍的に人類にとって善い」と確信して虐殺を実行したのだ。終戦間際の日本だって「それが善い」と信じて若者に自殺特攻を強要したのだった。「普遍的な善さ」を求める天使の顔は天国を向いているが、その両手は血で染まっている。「地獄への道は善意で敷き詰められている」のだ。リベラリストはキレイごとを口にして悦に入っているだけ、自分の正義を他人に押し付け「多数決だから」「普遍的だから」などと少数者を黙らせる、傲慢な偽善者どもだ。ホモサピエンスは愚かだから「善さ」など分からない。しかしただひとつだけ疑い得ない「善い」と確信できることがある。それは「残りの寿命を私が自由に使うこと」だ。私はやりたいことをやる。だれも邪魔をしないでくれ。 

例題問題

移民や自由貿易にリバタリアニズムはどう反応するだろうか。

きっとこう言う。「好きにやれ。我が国に来たい移民がいるならば、彼らは来ればいい、それが彼らの自由だからだ。そして移民が気に食わないという奴がいるのなら、そいつは移民を差別すればいいじゃないか、それが彼の自由だからだ。社会が混乱する? 知らん。みんな自分の自由意志にだけ従え。ただし政府は介入するな」

最後は利己主義者。 

利己主義者は「社会の原則はかくあれかし」という議論に興味がない。社会の仕組みなん

てどうでもいいのだ。たとえどのようなルールでも、自分が得ならそれでいい。 

例題問題。

移民政策や関税フリーの自由貿易にたいして利己主義者はどう反応するだろうか。

自分の商売が儲かるなら自由貿易も移民も賛成だし、反対に、自分の商売に不都合ならば反対するだろう。つまり金銭的なポジショントークをするだけで、移民にも自由貿易にも倫理的な興味はないのだ。

ここまでが政治的な主義だよ。 

数式や経済理論になどまったく言及していないのにも関わらず、ほとんど主要な経済政策の勘所はすでに出揃ってしまったことに気づいただろうか。 

経済問題のコアを掴むのに経済学説など必要ないんだよ。機会費用だとか限界費用だとか関係ない。ましてや数学なんて絶対に必要ない。なぜなら経済問題の本質とは「善さ」をめぐる道徳の問題だからであり、「善さ」は数式では記述できないからだ。 

政治が経済を従えているのであって、その逆ではないんだ。 

まず「善さ」に関する倫理の議論、つぎに政治、さいごに経済だよ。だから政治的な立場さえ理解してしまえば、ほとんどの経済問題は理解できるよ。経済政策について議論するときに数式を振り回すやつがいたら、そいつは自分がナニを語っているのか自分で理解していない。 

つぎ、それぞれの政治的主義者の多数派を占める社会がどのような社会になるのか、その姿を観察しようぜ。

共同体主義者が多数派を占めるような社会について。

共同体主義は伝統的にはドイツと日本と朝鮮半島とスウェーデンで根強く人気で、これらの社会では必ず政治も産業構造も、本人たちがそうと気づかないうちに、いつのまにか共同体主義的な形に収斂する。

この社会はうまく機能している間は「一体感のある同質性の高い社会」を実現するよ。外から見るとみんな仲が良くて理想郷のように見える。しかし共同体主義がわるく機能すると内側に対しては抑圧的、外に対しては排外的な自民族中心主義に堕する。 宗教としては民族宗教で止まって普遍宗教が出てこない。

つぎにリベラリスト(普遍主義者)たちが多数派を占める社会。 

リベラルな普遍主義は伝統的に中国とロシアとイスラム原理主義、それからフランスで人気だよ。

うまく機能すれば「だれもが出身にとらわれない実力主義で、自民族中心主義を超克した偉大な文明」に成長していくだろう、と予想できるね。 

 一方でリベラリストなインテリ官僚たちの普遍主義がわるく機能すると「国家権力が正義をふりかざして少数派を虐殺する全体主義」に堕していくのが常なんだ。 

政治的には強烈な中央集権になりがちで、理念としての平等を愛する。フランスの建国スローガンは「自由、平等、博愛、さもなければ死を」だったよね。フランス革命のあとに彼らが最初にやったことはギロチンによる恐怖政治だし、ソ連の共産革命のあとも、彼らが最初にやったことは「反革命分子」の大粛清だ。リベラリストが多数派を占める地域からは普遍宗教が生まれることがある。 

さいごリバタリアニズム(または社会契約論者)。

社会契約論的なリバタリアニズムは伝統的にアングロサクソン、つまりイギリスとアメリカの社会DNAみたいになっている。 

もちろんアメリカもイギリスも多様性の高い社会であって、色々な主義の人が一緒に暮らしているのだけど、しかし不思議なことに、結局は、政治的にも産業構造的にも、いつの間にか社会契約論的な殺伐とした個人主義の社会に収束していく、 (アメリカには政府が運営する年金もないし、国民健康保険もないし、貧乏人には裁判で国選弁護士もつかない。)アメリカ社会もイギリス社会もほとんど本能的に他国と同盟しない孤立主義をとろうとする。 

うまく機能すれば「個人の自由と才能が最大限に羽ばたく社会」として独創性の輝く社会になるだろうし、  一方で、リバタリアニズムがわるく機能すると「誰もが誰をも助け合おうとしない、一体感を欠いた殺伐とした格差社会(万人の万人による闘争)」になっていくだろう、と予想できるね。 

 EUは共同体主義とリベラリズムとを結合しようとした政治的な実験だと見ることできるし(この実験は失敗しそうだ)、 中国やロシアのかつての共産主義、そして最近のイスラミックステーツのイスラム原理主義の理念は、リベラル普遍主義を極限まで突きつめた壮大な実験だった、と見ることができるね(やはりこの実験も挫折した)(イスラム原理主義はその普遍主義的な理念にもかかわらず、現実には部族制度が国家の内部分裂を誘発してしまう)。 

そして現在のアメリカ流グローバリゼーション(=新自由主義イデオロギー)とはリバタリアニズムと利己主義との折衷案の道徳を、経済用語で語ったイデオロギーだと理解できるね。 

じつはこれらの社会にはそれぞれ「ほぼそのまま」対応する、好まれる経済政策と好まれる経済学説があるのだ。 

やっと経済政策に近づいてきたね。 

好まれる学説について、結論から言うと 

共同体主義者が好む経済学は「制度派」と「歴史学派」。 

彼らは社会と個人とが渾然一体と考える、なので「国家VS個人」のような対立軸では社会を叙述しない。経済現象は歴史、社会構造、民族、文化、言語、宗教、などと境界線が曖昧なまま混ざりおっており、「純粋な市場」という強引な仮定を設定してまで議論を数式に落とし込むような学説に懐疑的。経済はそれぞれの国家でそれぞれ異なる形式に進化する、という世界観だよ。つまり国家の数、文化の数、歴史の数だけ異なる経済が現れる、という世界観。経路依存的で、帰納的。 

代表はウェーバー、ヴェンブレン、ポランニー、C.ノース、青木昌彦、など。 

つぎ、リベラリストが好む経済学は「ケインズ主義」と「マルクス主義」。  

彼らの直観においては市場は万能でない。市場は放っておくと弱肉強食の無法地帯と化し、ヒャッハーで強欲な資本家が女、子ども、老人、病人を搾取する「独占」で極相する。

そして人々が「商品」よりも「貨幣」を好む傾向からインフレと不況が構造的に現れる。 

いちど格差や不況にはまりこんでしまうと、そこで市場の生態系が安定してしまい、市場は自力では格差や不況から抜け出せなくなる。 

だから国家が経済に強引に介入して格差を是正するべきだし、社会福祉も責任を持つべきだし、そして国家が雇用の創出にも責任を持つべきだ、という世界観だよ。国家権力の性善説だね。経路依存的で演繹的。 

代表はクルーグマン、スティグリッツ、ガルブレイズ、セン、など。英語圏の知識人の良心。 

リバタリアンが好む経済学は「新古典派」をベースに「ハイエク」と「フリードマン」 

まず人間は愚かでその理性には限界がある、という事実を彼らは重視する。 

ここから導かれる命題はふたつ。「人間には市場はコントロールできない」「国家権力は暴走する」。 

市場はコントロールできない。格差の是正や雇用の創出なんて無理。良かれと思って市場に介入すると状況を悪化させる。とくに貿易が活発になって開放系になってからは、人間はほぼ経済現象を理解できていない。この事実を認めるべき。 

さらに国家権力は暴走する。これは歴史の事実だ。ソ連とヒトラーがなぜ人々から熱狂的に支持を受けたか知っているだろ? 「失業をなくす。格差を社会から一掃する」彼らはそう言って民衆から支持されたのだ。市場を管理できるほどの権力を国家に与えるべきじゃない。 

市場はもちろん万能ではないが、同じくらい人間の理性も不完全だ、どちらかといえば消去法的に市場にまかせたほうがいい。「自然に任せろ」。という世界観。公理的。演繹的。 

新自由主義者の中にハイエクやフリードマンの意図を正しく汲んでいる論者はほとんどいない。つまり「自由市場とは経済における民主主義なのだ。独裁を産まない自浄作用がある」という意図だね。ほとんどの新自由主義者はこの意図を汲んでいない。ひどく素朴に「政府に税金を払わないでカネ儲けしたい」と言っているだけの人が多い。 

新自由主義の代表はIT系の経営者、外資金融のエリートビジネスマン、そして親の代からの資産家の裕福層など「勝ち組」たち。彼らは自分に都合よく新自由主義をねじまげて、政治家にカネをばら撒いては、金持ちに都合のいい税制を世界中で具現化している。 

「格差は市場の結果で、「自然現象」だ」 

「金持ちの税金を減らせ、むしろ消費税を増やして貧乏人から税を取れ」 

「経営者がもっと自由に労働者のクビを切れるようにしろ」「それが効率だ。それが市場の自然だ」 

と叫んでいる感じ。カルロス.ゴーンみたいな人たち。 

さて、実際のところそれぞれの社会はどんな歴史を歩むのか。 

それぞれ観察してみよう。 

まず共同体主義者が支配的な社会について。 

共同体主義の社会は「国家による市場への介入」および「保護貿易」を好む。政府が「市場を歪める」ような政策を露骨に採用して、自分たちでも気づかないうちに「国家資本主義」を作ろうとする。これはドイツ、日本、韓国、台湾、香港、シンガポール。歴史的には日本が完成させた。 

政策としては国の定めた「国策企業」を超法規的にえこ贔屓して「官製の寡占市場」みたいな状況を国内に作りだす、さらに「国策産業」を外国からまもるために暗に明に保護貿易を展開する。それが「長い目で見れば社会全体のためになる」と彼らは考えるからだ。そして不思議なことに、これらの政府の判断はかなりの確率で正解を引き当てる、歴史の課したテストをパスするのだ。 

だけど共同体主義者の言う「社会のため」とは自分たちの共同体の利益しか含んでいない。その無自覚で無邪気な自己中心性が「いい年してちょっと幼稚じゃないスかね?」と、しばしば国際社会から顰蹙をかう。 

(日本は法律の上ではアメリカの言うままに自由貿易を推奨していたけど、しかし明文化されない商習慣や企業同士の伝統などでもって「実質的には」産業と官庁とがツーカーで助け合う保護貿易と寡占市場が実現していた。その最たる例は20世紀の頃の自動車産業、そして東芝と日立と三菱。) 

(さらには現在の日銀の凄まじい買いオペによる相場の下支えも、表面上はマクロ経済学の最新の理論、すなわち合理的期待形成だとマネタリズムだとかに従っているように振る舞っているが、本質的には共同体主義者の道徳から出た「善行」なのだ。) 

( 「国民が銀行に貯蓄する」→「銀行が政府から国債を買う」→「日銀が銀行から国債を買う」という流れは、つまり、日銀が政府から国債を買っていることと同じなのだから、中央銀行による財政ファイナンスにほかならない。) 

(さらに日銀が相場のインデックス株を買い支えているのもやはり同じで、「国民が現金を貯蓄する」→「銀行がこの現金で国債を買う」→「日銀が銀行から国債を買い上げる、さらに日銀は保有する国債を価値の担保として貨幣を刷って、この貨幣でもって企業の株を買い支える」→「企業は設備投資が行える」→「総需要の創出」、となっており、つまりは日銀が国民の代わりに余剰の貯蓄を投資に流しこんでいるのだ。) 

(「市場の競争に任せるとうまくいく」という新古典派の「イデオロギー」こそが嘘っぱちで、「なにがあっても民衆はタンス預金をやめない」という文化的な心性こそが日本の真実なのだ、日銀は「目の前の事実」を認めて家計にかわって投資をする役割を引き受けている、意識的にか無意識的にかは重要でなく、結果として、「大きな中央銀行」とでも呼ぶべき歴史上に存在したことのない実験を敢行しているのだ。) 

(新自由主義者は「官製相場」という表現で日銀を批判しているが、しかし「官製○○」という環境は過去を眺めれば日本という社会では自然な姿だ。「官製」という言葉が相手を避難する言葉であるように見えるのは、「市場に任せるほうが道徳的に善い」と信じている人にとってだけだ。この日銀の歴史的な実験が上手くいけば、ほかのアジア諸国も日本をまねるだろうし、失敗すれば世紀の愚行として教科書にのるだろう。判断は歴史が下す) 

(韓国は植民地解放直後の時代、軍事独裁の時代、そして民主化後の時代、と一貫して国家資本主義と保護貿易をしていた。というより日本の明治政府をモデルに殖産興業を国策としていた。LGやサムスンは市場が育てた企業でなくて政府が育てた企業。) 

(台湾とシンガポールはほぼ「株式会社台湾」および「株式会社シンガポール」という様相を呈している。台湾のロールモデルはおそらく明治および戦後の日本。しかしシンガポールは分からない、 

(シンガポールは国立大学を「政府が特許権を手に入れるために外国から高値でスカウトしてきた学者を使い潰す場所」と割り切ってビジネスライクに運営していたり、出稼ぎの外国人労働者を「人権?それカネになるの?」とばかりに家畜にように3年で使い捨てたり、北朝鮮やトルクメニスタンもまっ青の独裁を敷いていたり、さらには堂々とタックスヘイブンで開き直ったり、と、これまで地球のどこにも存在しなかった独自の資本主義を進化させている。シンガポールの今後に注目。) 

(この「国家資本主義」タイプの国家群は工業を特化させるという進化をとげている。ドイツ、日本、韓国はGDPに占める貯蓄率が高く、その余剰資金を設備投資や企業の研究活動におしみなく投入し続けている。) 

(彼らの「工業を国家戦略の基礎に据える」という生存戦略が「正しい」のか「古臭い」のかについてはエコノミストによって意見が分かれる。) 

(新自由主義者は「古臭い20世紀型の工業の研究なんてやめて、21世紀の知識産業にシフトするべき、すなわち金融や観光や流通システム特許や、そんな「元手がかからないのに莫大な儲けの上がる分野」にカネを回せ」と主張している。工業における研究開発には長い時間と辛抱強い投資が必要だからだ。)(市場の投資家は長い時間を辛抱強く待てない。しかし政府ならば辛抱強く「国策産業」に投資を続けられる。このふるまいは「市場を歪める行為」なのだろうか、それとも「共同体のための投資」なのだろうか) 

(実際にイギリスとアメリカは80年代あたりから、すべてを市場にまかせた結果、金融業が肥大化するように産業構造が変化した。) 

(工業の稼ぎ出したカネを金融業が吸い上げる。「企業は株主のものだ」というスローガンが神聖な神の言葉として君臨しており、イスラム教徒が「アッラーの他に主はなし」と信仰告白するように新自由主義者は「株主のほかに持ち主はなし!」と絶叫している。) 

(企業は株主の顔色をうかがわなければならず、内部保留を減らして株主配当を上げる、すると、工業系の企業は稼いだカネを株主にまわすので、結果、自分たちの研究や開発にカネをまわせなくなる、なにより研究開発は時間がかかるので短期的には配当が上がらない、株主(というより投機目的の投機家)に怒られる、) 

(よって、長期的には技術開発力が下がる、または冒険的なベンチャー企業が完成してない技術で見切り発車する、という「金融最優先」の産業構造に進化している。実際にイギリス社会では工業が衰退している。アメリカの GM、フォード、は自動車屋というより銀行屋に変化しており、クライスラーは倒産した。) 

(しかし統計の数字では金融がすさまじい金額を稼ぎ出し「イギリスの GDP を成長させている」。いったい「なにを」稼いているんだろうか?) 

(日本の政治家と官僚と産業界は、新自由主義エコノミストの叫ぶ「金融を優先しろ」という言葉をガン無視していて、鋼の意志で科学技術を「日本の伝統芸能」だと位置づけて、市場を歪めてまで科学技術の振興に力を入れている。20世紀型のスタイルを捨てない) 

(新自由主義エコノミストたちが叫ぶ「市場の競争にすべてを任せて金融を優遇しろ」という主張と、一方で、日本の政治家や産業界による「市場なんて知らねー、談合と言われようが産官学が挙国一致で科学技術に命をかけるのだ」という戦略と、いったい、どちらが正しい「未来の選択」なのだろうか。) 

(日本社会はノーベル賞をとったリチウム電池やIPS細胞のほかに、化学繊維、化学触媒、カーボンナノチューブ、超伝導の素材技術、など、まだ産業化に至っていなくても未来で必ず産業化するはずの技術を蓄え続け、いまも特許を取り続けている。その研究の震源地は大量の税金を注ぎ込まれている国立大学や研究所だ。そもそも政府が集中的に税金を投入しなければ基礎研究から工業へつなげるイノベーションなど起こりようがない。イギリス社会はすべてを市場にまかせた結果、科学技術の路線での社会の進化はとまり、工業が衰退して、短期的に莫大なカネの動く金融業界が、若い才能を呑みこんで肥大化していった。たしかに金融は「ほかの産業やほかの国からカネを吸い上げて信用をふくらませる」ことで、帳簿の上では儲かっているのだ。カネを吸い上げられたほかの産業やほかの国では貧困層がうまれるが。しかし良いじゃないか。個人の自由なのだから) 

(どちらが「豊かな社会」なのだろうか。) 

(これは政治の議論なのか? 経済の議論なのか?) 

(より本質的には国家の役割についての道徳的な議論なのだ。短期的にカネ儲けをしたいと個人が望むなら、たとえ長期的には科学技術が弱るとわかっていても、「個人の自由を最優先で保証する」ことこそが真に国家の役割なのか、それとも、「共同体全体の利益のために」、短期的には個人の自由を歪めてでも、産業の育成にイニシアチブを取ることこそが真に国家の役割なのか、) 

(どちらを「善い」と感じるのか。「国家の役割とはなんなのか」。人々が、というより社会が、自分のお好みの道徳を選択する議論なのだ。) 

 ちょっと長くなってしまったけど以上が共同体主義者の好む経済政策だね。 

こんなに長々と具体例を叙述してまで高校生のキミらに体感してほしかった点は、ここまでの議論に「一度も経済理論や数学は出てきていない」という点なんだ。 

共同体主義者は自分でも気づかないうちに「国家資本主義」を作ろうとする、という話だったね。 

「共同体主義者の国家」には弱点もある。 

彼らは世界でリーダーシップを取る気もないし、それだけの思想的な器もないのだけれど、しかし、気づくと国力が増大して地域覇権国家になっているんだ。ドイツと日本に典型だね。 

「政治思想の幼稚さ」と「強すぎる国力」とのアンバランスが危険で、自分たちが強すぎるという事実を自分たちで理解していない、あくまで「自分たちは one of themなのだ」と、現実に見合わない自己イメージをしようとする。 

このアンバランスさが周囲の国家を不安にさせる。ドイツと日本が周囲の国家を不安にさせるのは第二次世界大戦という過去のせいじゃないよ。誰もそんなの興味ない。「ヨーロッパではドイツが最強、アジアでは日本が最強、これは誰が見ても明らかなのに、なぜか、この二国が、地域の安定にリーダーシップをひきうけようとしないで、自分の都合しか話さないから」、だから周囲を不安にさせるんだ。

つぎにリベラリストたちはどんな歴史を歩むのか。 

リベラリストは公平な再分配をなにより愛するので、自分たちでも気づかないうちに「膨張する福祉国家」を作ろうとする。中国やロシアやフランスにその傾向がつよい。あとイスラム原理主義者も公平な再分配をつよく主張する。 

 どの国や社会の中でも良識派のリベラリストは必ず「所得を再分配しろ。金持ちから税をとって貧乏人に転移しろ。」と言うよね。 

 そしてリベラリストは続ける。「格差の固定化は社会のなかの「われわれは仲間だ」という一体感を失わせてしまい、長い目で見れば社会の生産性を下げる。社会の中でもっとも大事な人々は中産階級だ。金持ちなど親の財産で金持ちなだけだ、彼らを優遇する必要はない。中産階級を守れ。公平でまっとうな社会が目指すべき社会だ」とか、そんなことを主張する。 

 ただしリベラリストは性急に「平等な結果」を求めすぎるきらいがあり、「べつに平等に分けるのはいいけどさ、じゃあ、どうやって稼ぐの?だれが稼ぐの?」と切り返されると言葉に詰まる。 

 なにかお花畑な精神論で「みんなで励まし合いながら頑張る。すると理屈はよくわからないが生産性は上がる。1+1は、3なのだ、いいね、同志」みたいなことをいう。共産主義国家やイスラミックステーツに端的に現れた弱点であり、そして先進国における良識派のリベラリストも同じ弱点を持つ。 

 そしてリベラリストは性善説なので国家権力という猛獣に首輪をはめることをしばしば怠る、彼らにまかせておくと国家権力がぶくぶく肥大化する。臨界点を超えると権力が暴走して「善意による虐殺」や「善意による侵略」をはじめる。ナポレオンやソ連をイメージしよう。「革命の輸出」といって他国を侵略していたね。 

さいごにリバタリアンたちが好む政策とはどんなか。 

彼らは国家権力を憎悪しており、個人が自由にふるまえば世界が平和になる、と本気で信仰している。自由を愛する。 

混じり気なし100%の善意から「規制緩和と自由市場」を他人に押し付ける経済政策を好む。相手が「自由市場」を断ると「悪の帝国」「全体主義の奴隷」と呼ぶ。 

彼らの世界観では「自分は独立独歩で生きている」。だから、まるで自分は誰にも迷惑をかけずに、誰の世話にもなったことがなく、そして自分の能力だけで生きている、かのような、不自然な万能感とナルシシズムを肥大化させる。ゴーンやホリエモンをイメージしよう。国家や社会など存在しないかのように振る舞う。 

新自由主義をイギリスで徹底させたサッチャー首相の有名な言葉は「there is nothing such as a society (社会などというものは存在しない)(つまり「個人」しかいない、ということ)」だったよね。 

本当は国家や社会や他人に助けられないと個人は生きられるわけがないのに、しかし、リバタリアンや新自由主義者は、「自分は自分の能力だけでここまで成功したし、自分は自分の能力だけで生きている」というナルシシズムを貫こうとする。 

だから彼らは税による所得の再分配は好まない。「金持ちは優秀だから金持ちなのであり、貧乏人は能力が低いから貧乏なのだ、だから格差は不平等ではなくて、能力差から生じる、そして市場でもっとも効率のよい、とうぜんの自然現象だ」、というのが彼らの世界観だ。 

そして彼らは続ける 

「金持ちから税をとって貧乏人にバラまくことは無能力者どもの溜飲を下げさせるだけの「嫉妬の政治」だ、能力の高いもののモチベーションを削いでしまう、くわえて、働きもせずに分前にありつけるとなると能力の低い奴らが甘えてしまう(フリーライダーという)、だから平等な税制で国家が個人を助ける必要なんて無い。」 

さらに彼らは続ける。 

「むしろ金持ちこそ税を軽くして、金持ちがもっと稼ぎやすくするべきだ。金持ちが稼げば国全体の生産性が増すからだ( パイが大きくなる、という表現が好まれる。つまりGDPが増すということ) すると、貧乏人もその分け前にありつける。金持ちがより金持ちになれば、おこぼれの富が市場にしたたりおちる、残飯を漁る犬のように、貧乏人は金持ちがこぼした富に群がればいいじゃないか(トリクルダウン理論という。数学的な裏付けもないし、実証的な裏付けもないのだから、トリクルダウンはよくて「仮説」、常識的な感覚では「思いつきの発言」のはずなのだが、なぜか、新自由主義者はこれを「理論」と呼ぶことを好む、まるで相対性「理論」と同等ででもあるかのように)。」 

「たしかに格差は広がるが、しかし全体のパイは大きくなっているのだ。現在の先進国の貧乏人だって、100年前のアメリカの大富豪より裕福な暮らしをしている、(これは本当だ)、テレビがあって、パソコンがあって、スマホがあって、エアコンがあって、プレステがあって、そして抗生物質とバイアグラがある。なにが不満だというのか?」 

アメリカとイギリスは上のような新自由主義者の主張に対して「だれも理論的に反論できないし、道徳的にも反論できない」という不思議な社会になりつつある。 

「自由な個人が自由な市場で競争的に分配しあうのがもっとも「善い」」という公理から推論を始めるため、この最初の公理を真理と認めてしまうと、反論できなくなるのだ。せいぜい「情報の非対称性や寡占のせいで市場は失敗することもある」くらいしか言えなくなる。 

しかし気づいただろうか。 

「格差は自然現象だから可能な限り放っておけ。自由の個人の合理的な選択の結果としての格差なのだから、個人が責任を取ればいい。市場の効率がつねに正しい」という上の理屈は、実は、 典型的に「新古典派をベースとした新自由主義者」の語る「科学的で中立的な経済政策」なのだ。テレビでもエコノミストはだいたいこんな喋り方をするよね。彼らは自分の主張はイデオロギーなんかじゃなくて、数学によって証明された客観的な真理だって言い張る。 

われわれ素人の素朴な直観からはどう好意的に解釈しても「イデオロギーに染まった価値判断」にしか見えないが、しかし、なぜか、21世紀においては、これが「科学的で中立的なグローバルスタンダード」なのだ。ソ連においてマルクス理論が「中立的な科学」であったことと似ているね。魚には自分をつつむ水が「見えない」ように、イデオロギーの内部にいる者にとっては自分をつつむイデオロギーは透明なのだ。 

以上がそれぞれの好む政策だった。 

高校生のキミらに理解してほしかった点は「どこにも中立的なやつなんていない」という点だよ。 

(たとえば私は経済の解釈についてはあからさまに「制度派」であって、経済現象はさいごは歴史か人類学に回収されると信仰しているし、そしてお気に入りの政治的立場はリベラルなのだ。だから高校生のキミらがここまで読んで、もし、「自分も制度派だしリベラルだなぁ」、と感じたならば、きっと私に「布教」されている可能性が高い。大人の言うことなんて信じちゃダメだよ。疑ったほうがいいよ。) 

まとめるよ。 

共同体主義者は産、官、学、の協力体制による産業の育成を好む。保護主義や談合が好まれ、内向きで排他的な「じぶんたちだけの安定」で生態系が極相する。 内向きな排他性が社会の活力を奪い、自分たちを客観的に見ることができなくなっていく、主観的な理屈を振りかざして国際社会で暴走、歴史の中で道化のような役割を一度は演じる。

普遍主義者は平等を優先する。エリート主義のスノッブが多く、よって彼らは学歴エリートの知的能力を過大評価してしまう、お花畑な国家権力性善説に傾倒する。ほうっておくと福祉国家という建国の理想が、ぶくぶく肥大する官僚主義という現実の前に挫折し、さらにはいつの間にか官僚機構が全体主義国家なっている。 

リバタリアンは個人の自由を優先する。国家権力も人間の理性も信じない。「人格の陶冶」という個人主義の理想はいつのまにか陳腐化して利己主義に堕する。公共意識がメルトダウンし、格差が広がりつづけ固定化してしまい、社会が一体感を失い分裂する。さらには時間とともに社会の断絶は進行しつづけ、ギスギスした個人主義だけが残る。

それぞれの経済学説について経済史的な成り立ちも含めてサラリと輪郭を説明したいけど長くなるから次回に続く。どっとはらい。ばいばい。 

 

文責 ふじい 

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