入試現国の制覇 第6回「資本主義批判①」

入試現国の制覇 第6回

忙しい高校生のためのまとめ

Q

たしか入試現代文においては「資本主義を道徳的に批判する」のがオーソドックスだったんすよね

A

そうだね

 

 

Q

どんな種類があるんスか?

 

A

まず資本主義批判の大ボスである「マルクス主義」。

 

つぎにマルクス主義から派生した「ポストコロニアル」、「カルチュラルスタディーズ」、

ちょっと毛色が違うように見せかけて結局はマルクス主義の子孫である「ジェンダー論」。

 

ポスコロやカルスタやジェンダーの議論においては我々が今までに勉強してきた「言語論転回」や「アイデンティティ」といった考え方が議論の理解の役に立つよ。それから言語論が下敷きで資本主義批判といえば、記号論だとか人々の消費における欲望の分析だとか、そんな議論も何十年か前の昔にはひどく流行ったものだった。

 

 

Q

じゃあ今までの言語論だとかアイデンティティだとかいった話と、まったく関係のない批判の仕方もあるってこと?

 

A

あるよ。

 

「言語」だとか「無意識」だとか「ニーチェ」だとか言った現代思想の切り口とはまったく異なる角度から資本主義批判をする議論もあるよ。

 

社会学者がよくデータを携えて示してくるのが「格差」の議論。

統計やらアンケートやらといった定量的なデータを駆使してこんなことを言う → 「金持の家の子どもの方が難関な大学に進みがちであり、そして難関な大学に進んだ学生の方がより年収の高い企業に就職しがちであり、そして高い年収の企業に就職したかつての子どもは、自分が親になったとき、自分の子どもにも多くの教育費を投入する傾向にあるとデータではでてる、ほら、東大生のパパの年収は平均年収よりこんなに高いだろ」とか、そんな議論。

 

 

 

 

Q

まあ直感的には「知ってましたけど」って感じだね。

 

A

データできちんと数値にして定量的に示した、という点が社会学者の仕事の良い点なんだよ。

 

いままで僕らが触ってきた「言語論」だとか「アイデンティティ」だとか「実存」だとか言った議論はまったく定量的でないだろ。人文系の人の議論ってのは定性的な概念をいかにカッコよさげに振り回すか競い合う、レトリックの空中戦といった趣がある。たとえ言い回しがお洒落でなくたって数値で示されたデータには圧倒的な説得力があるよね。

 

膨大なデータを積み重ねて定量的な数値でもって資本主義を批判したという点においてはフランスの経済学者ピケティさんの「21世紀の資本」も大ブレイクしたね。

 

ひどく簡単にまとめると「相続を何世代も重ねることで金持ちはどんどん金持ちになっていく、金持ちは生まれた瞬間に親の資産で金持ちだ、金持ちは労働せずに株や債券といった金融資産を運用するから資本主義のシステムの中ではさらに金持ちになっていく、そしてこの経済格差は世界中で時間の経過とともに加速度的に広がっている、働く人々がどんどん貧乏になっていき、働かない裕福層がどんどん裕福になっていく、だから累進課税をつよくするか、または相続税をつよくするか、そんな対策が必要だよ」みたいな警告だね。

 

 

 

 

Q

資本主義の中では「一度カネが集まると、そのカネがさらに次のカネを呼び、そのカネがさらに次のカネを呼び、と、カネが集まり続ける正のフィードバックが働く、だから資産の肥大化が正のスパイラルに入る」っていう議論っスね。

 

A

そう。反対もまた真であって「いちどカネが逃げていくと、カネがないという事実でもってさらにカネが集まらなくなる、するとさらにカネが集まらなくなる」という負のフィードバックもスパイラルするよ。

 

 

Q

なんでっすか?

A

おそらく金融の本質が「時間を先回りした信用のやりとり」だからだと私は思う。ホモサピエンスの社会では「信用」というものが合理的に計算されて運用されているというよりは、むしろ、感情的にヒステリックに運営されているから、というの答えじゃないかと勝手に思っているけど、しかし! この議論は入試現代文の範囲を逸脱するから次に行こうZE!!

 

 

Q

じゃあ他には? 今までの言語論やらアイデンティティやらと関係のない資本主義批判は?

 

A

ほかには歴史学の成果である「世界システム論」。

資本主義が生まれて以降、つまり16世紀以降の世界においては経済は「平等な競争」になんかなっていない。むしろ常に「覇権国家だけが栄える、そして覇権国家が栄えると、その周囲の衛星国家は周縁となり、周縁国家の経済は覇権国家に従属する形に収斂していく、結果、周縁国家の経済は停滞したままになるかまたは後退してしまう、そして理由はよくわからないが覇権国家は歴史の中では移ろいでいく、スペイン → オランダ → イギリス → アメリカ という具合」と議論した。

 

ピケティの議論が「資産家階級が相続を利用してどんどん金持ちになるにつれて、資産のない労働者階級はさらに貧乏になっていく」と議論したことに対して、世界システム論においては「覇権国家がさらに栄えるにつれて、周縁の国家はさらに停滞していく」と議論しているね

 

 

つまり資本主義というゲームはこのゲームの参加者の全員が得をするWIN-WINゲームであるよりは、むしろ、たった一人か、またはごく少数の勝者だけがすべてをかっさらっていく「ゼロ・サム」ゲームなのかもしれないぜ、と問題提起しているわけだね。

 

 

Q

資本主義はゼロ.サムゲームなの?

 

A

現在の主流の経済学者は「資本主義はみんなが得するWIN-WINゲームだ」と主張しているよ。「分業の比較優位」という考え方がすべての基本だからだよ。比較優位は高校の政治経済でも計算問題として出てくるよな。

 

 

Q

じゃあ資本主義はみんなが得するWIN-WINゲームなの? 経済学者がそう言うくらいだし。

 

A

ところがそう言っているのは主流の経済学者「だけ」なんだ。資本主義と市場主義とを複合した金融ゲームこそが人類の到達したWIN-WINの最高なゲームなのだ! と、主張しているのはアメリカ流のカリキュラムで勉強した経済学者「だけ」なんだよ (ちなみにアメリカは20世紀の覇権国家だった)。 彼らを新古典派とか主流派とか呼ぶ。

 

経済学者の中でも派閥がちがうと異論があるみたいだよ。だいたいマルクス主義者とケインズ主義者が主流派に噛みついてるイメージ。マルクス主義者は「資本主義はそもそも狂っている」と主張していて、ケインズ主義者は「資本主義は許すけど、しかし市場至上主義は失敗している」と主張しているみたいだね。市場至上主義ってのは「市場の自由競争に任せておけば、すべてが勝手にうまくいく、市場が最強、自由競争が最高、みんな自己責任で競争しろよ」という考え方ね。

 

 

経済学以外の他のほとんどの学問分野の学者と、そしてわれわれ一般人は「資本主義は一人勝ちのゼロ・サムゲームだし、市場主義はルールのない弱肉強食のデスマッチじゃないのかな?」と素朴に感じている。 

 

それから「資本主義は不況が必ず発生するし、不況が発生すると自殺や暴動やテロリズムが増えるぜ、景気に波があると不安定で危ないよな、 定期的に多くの人が自殺するような不安定な社会を採用してまで追い求めるほどの「経済成長」ってナニよ?」 と素朴に疑問を感じてもいる。

 

さらに人文系の学者の多くにいたっては「そもそも資本主義って道徳的に良くないんじゃない? 戦争が道徳的に良くない悪行であるみたいに、資本主義って道徳的に良くない悪行なのじゃない? だって資本主義のせいで労働が苦役になってるし、資本主義はホモサピエンスの欲望をムダに刺激するじゃん」と感じているらしい。

 

 

 

Q

資本主義ってあんまり人気ないんスね

 

A

そうみたいだね。

キミが資本主義を好きでもキライでも構わないけど、入試現代文に関心を限定するならば、「資本主義を道徳的に批判するような文章」が採用されることが多いよ。なぜって入試の現代文を書いているような人たちは自然科学系の人や社会科学系の人ではなくて、人文系の人々であることが多いから。覚えておいてね。

 

 

 

Q

ポストコロニアル、カルチュラルスタディーズ、ジェンダー論、あたりの話を聞いてないんすけど

A

うん。ポスコロ、カルスタ、ジェンダー論は一見すると資本主義批判と関係なさそうだよね、だけど彼らはたしかにマルクス主義の派生的な後継者だし、問題意識として資本主義へのカウンターという信念の炎をその胸に秘めているんだよ。だけど長くなるから次回に続く!! ばいばい。

 

文責 ふじい

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