入試現国の制覇 第4回「オリエンタリズムとナショナリズム」

入試現国の制覇 第4回

忙しい高校生のためのまとめ

 

Q「オリエンタリズム」ってなんスか?

A 自分の願望が作り上げた虚構のイメージ、「劣った他者」というイメージだよ

Q じゃあ「ナショナリズム」は?

A 自分の願望が作り上げた虚構のイメージ、「優れた自己」というイメージだよ

Q 虚構ってことは偽物でしょ? なんの役にたつわけ?

A 「自分は素晴らしい奴だ」っていうアイデンティティを死ぬまで抱いていられる、という点において役立つよ。自尊心が高くいられる。よかったね。

Q ふーん、でも現代思想のトピックになるってことは何か問題もあるわけでしょ?

A うん。ある。現代では政治の場面においてわりと大問題になってる。

Q どんな問題が発生するの?

A 入試現代文に議論を限定するならば、インテリの人たちは「排外主義が横行して大衆の知的レベルが下がって民主主義が劣化する」って心配しているみたい。ぼくはインテリじゃないからよく分からないけど。

 

 

まずはオリエンタリズムから。

オリエンタリズムとは「オリエント」すなわち「東方」のことだという前回の話は覚えているだろうか。

オリエンタリズム」とはイスラエル系の知識人E・サイードが提唱した概念だよ。

ヨーロッパ人がオリエント世界を表象する際には、実のところ、白人たちは真実のオリエントの姿に関心があるのではなしに、むしろ、彼ら自身がイメージの中で作り上げた虚構のオリエントに関心があるだけであって、白人たちはどこにも存在しない空想上のオリエントについて議論をして喜んでいるのだ、と指摘した概念だ。

この議論は根本的にはフロイトの精神分析のうち「防衛機制」「投影」あたりをベースにしているのでアイデンティティのつづきとして紹介します。

 

オリエンタリズムにおいてはヨーロッパとオリエントはあたかも写真のネガとポジのように色を反転させただけの双子の鏡像として描かれる。

たとえば「われわれヨーロッパ人」とは

 成人した / 白人の / 男性 / 異性愛者 / キリスト教徒であり / 理性的で / 科学を理解し / 主体的であるがゆえに / 自由に運命を切り拓く / 進歩的な人々 なのだ。

しかし「あいつらオリエントの人々」とは

 子どもレベルの文明水準にとどまっている / 有色人種で / 女性じみた気質 / 同性愛志向の / 異教徒であり / 理性よりも感情を優先する / 迷信に縛られた / 依存的な性質であるがゆえに / 運命論に従うだけの / 停滞した人々、 なのだ。

どうだろうか。

まさに鏡に映したように真反対だね。

 

ヨーロッパ人たちは自分たちの世界像において「価値あるもの」とされている特徴すべてを「われわれヨーロッパ人」の先天的な特徴としてリストアップしていき、しかし返す刀でもって、自分たちの世界像においては「劣ったもの」とされている特徴すべてを「アジア人の先天的な本質」として発見していったんだよ。

たとえばノーベル文学賞を「白人様から付与していただいた」日本の文学がどんなんだかご存じだろうか。

彼らの代表作は雪国と伊豆の踊子だろうけど、どちらも「文明からちょっと離れた非日常空間にいる女性とのアバンチュール」を描いたプロットだよね。ヨーロッパ社会がアジアに求めているイメージとは、まさに、「エキゾチックで非キリスト教的な若い女性」なのだね。

 

じつはオリエンタリズムの世界像とは男性が女性を表象するときにも採用されていることに気がついただろうか。

理性的で、数学や科学の得意な、大人の、主体的に責任をとれる、われわれ男性、という語り方に対してまるで鏡に映したように

感情的で、数学や論理的な会話のできない、子供じみた、男に経済的にぶら下がるだけの、あいつら女ども、という語り方。

もちろんすぐに了解されるように宇宙のどこにもそんな「われわれ」は存在しないし、そんな「あいつら」も存在しない。

本当は自分の中にこそある望ましくない特徴を、あたかも「彼ら」の先天的な属性ででもあるかのように発見し、相手に押し付けていくような世界観。

 

「われわれ」と「あいつら」とが写真のネガとポジのように双子の鏡像になっているという事実は、すなわち「われわれ」の発見と「あいつら」の発見とが同時に起こるという真理の同値表現でもある。

「チョウ」とは「ガでない方」であり、「ガ」とは「チョウでない方」であったように、「われわれ」とは「あいつらでない方」であり、「あいつら」とは「われわれでない方」なのだ。

ふたつは同時に発生し、発生する以前に「本当のわれわれ」だとか「本当のあいつら」だとかはいなかった(言語論的転回の復習だよ)

 

実際にわれわれホモサピエンスは「あるがままの他者の真のすがた」を知ることになど、なんの関心もないのだろうと予想される。

われわれホモサピエンスは「優越して価値のある自分」という虚構の物語を維持することにしか関心がなく、この世界像を強化・再生産するために他者を利用しているだけなのだ、それ以外のやり方においてはどうも我々ホモサピエンスという動物は他者に関心を示さない生き物なのだ。

つまりヨーロッパ人にとってはオリエントが実際に同性愛的であったり停滞的であったりするか否かは重要ではなく、むしろ、真に重要な点は「われわれ白人は優れていて進歩的だ」というアイデンティティを強化・再生産することにあったのだ。

 

これは男性が女性を表象する手つきにおいても同じことが言える。

ホモサピエンスのオスにとって重要なことは「真実として女性は男性とはどのように異なった性であるのか」という真理の探求ではなくって、そんなものには興味がなくって、実のところ、オスにとって重要なものは「自分たち男性は価値ある存在だ」という虚構のイメージを維持し続けることだけなのだ。

この「自分は価値ある存在だ」というアイデンティティの虚構が崩れそうになるとホモサピエンスは情緒的に不安定になる。

 

オリエンタリズムの雰囲気が理解できただろうか。

ポイントは「他者を描いているように見せかけて、実際にはホモサピエンスは他者なんぞには興味がなくって、むしろ自分のアイデンティティを強化・再生産することにしか関心がない」という点だよ。いえい。

 

つぎはナショナリズムについて。

オリエンタリズムが「あいつら」を描くものだとすると、ナショナリズムは反対に「われわれ」を描く類型だと覚えておいて。

ナショナリズムによって描かれる「われわれ」とは「われわれフランス国民」や「われわれドイツ民族」という集団。

 

ナショナリズムの議論はベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体」という言葉を流行させころにホットになって、何十年もたった今でもホットな議論なままだったりする。

「想像の共同体」とは端的に「われわれインドネシア人」という意識のことで、それまで宇宙のどこにも存在しなかった「われわれインドネシア人」というアイデンティティをインドネシア政府が構築していった様子をアンダーソンは分析した。

インドネシアは数十の諸島と数十の民族といくつもの言語が入り乱れるカオスな地域であって、実際にはオランダの植民地だった地域をまとめて「インドネシア」として近代国家っぽく強引にまとめ上げて独立させたに過ぎない。

そのため住民たちには「わたしはインドネシア人だ」という意識をもったことなどなかった。だって言語も宗教も住んでる島も、そして人種的な外見も違うのだしね。

 

たとえば日本においても江戸時代までは「わたしは日本人だ」などとイメージしている住民はいなかった。

「自分は○○藩の人間だ」とか、「○○に仕えている武士だ」とか、そんな自己意識で生きては死んだ。赤穂浪士を見れば彼らのアイデンティティがどんなであったか想像つくね。

しかし江戸も末期、1000年以上も親分だとみなして後ろを追いかけてきた中華帝国がイギリスによってボコボコにされ、アメリカとロシアとが開国を要求してくるようになると、海外を意識せざるをえなくなり、にわかに「われわれ日本人」という意識が醸造されるや、ついには1000年ぶりくらいに天皇を担ぎ出してきて、「日本」という近代国家と「日本人」という集団と、そして「日本語」というそれまで存在しなかった共通語を、急ピッチで一夜城よろしく作り上げたのだった。

 

インドネシア政府も最近になってから似たようなことをした。

この資本主義社会で生き残るためにがぜひとも「われわれインドネシア人」というアイデンティティが必要だ。しかし今まで存在しなかったアイデンティティを住民たちに持ってもらうのは難しい。

そのために政府は新聞を発行し、「国民」「国語」「国家の祝日」のなどを作り上げ、ラジオで「インドネシア人」を宣伝し、学校における歴史教育で「インドネシア人」を教え込み、「国境線の内側には均質な属性をもつ「われわれインドネシア人」がいるのであって、そして「われわれインドネシア人」ははるか昔から存在した」という、プロパガンダの大宣伝を地道に行った。本当は存在したことのない「歴史的なわれわれ民族」を指して、アンダーソンは「想像の共同体」と呼んだのだった。

インドネシアのナショナリズムは政府によって主導されたものであって、これは資本主義世界を生き抜くための戦略として採用された。

 

ナショナリズムにはもちろん先行するモデルがあるのであって、人類史の中において最初にナショナリズムを発明して世界中に輸出したのは西欧だった。

西欧文明ということは近代だね。だから近代批判の文脈でナショナリズムはよく言及されるんだよ。

「ひとつの民族、ひとつの言語、固有の領土に、ひとつの歴史(たとえば「日本史」という歴史が保留も条件も抜きで客観的に宇宙に存在する、と信仰している)」という国家観はヨーロッパが発明して、20世紀というひどく限定した時代においてのみ世界中で猛威を振るった。

ヒトラーのホロコーストや旧帝国圏の民族紛争などの苦い経験を経て、いまではナショナリズムという神話はあまり人気はない。しかし21世紀の現代になってもナショナリズムを素朴に採用している人々はときどきいる。

 

ナショナリズムの世界像においては「われわれ」とは「祖先を同じくする純粋な血統の民族であり、同一の言語を話す集団であり、そして歴史的な正当性をもつ固有の領土の中に住まう国民」だと信じられている。

同一民族(つまりDNAの純粋性)、連綿と続いてきた言語の純粋性(もののあはれ、は日本人に固有の美意識です、どやぁ)、共有された歴史と、そして純粋に固有の領土。

「われわれ」が仲間であり「あいつら」が敵であるその根拠を国家や民族に求める信仰体系がナショナリズムだ。

 

西欧が世界の覇権をにぎるまでは「単一民族+単一言語+明瞭な領土=国家」という世界観はあまりメジャーではなかった。

たとえばハクスブルク家のオーストリア帝国は民族にあまり関心を持っていなかったね。

それにオスマン帝国も帝国内の民族の差異にさして関心を示さなかった。オスマンにおいてはアラブ、イラン、トルコ、スラブ、ユダヤが入り乱れ、優秀な奴は奴隷からでも軍人になれたし出世できた。

中華帝国も民族にガチャガチャ言うというよりは、むしろそのアイデンティティの根拠は民族ではなくて「科挙」によって受け継がれる士大夫の価値観だったのだ。科挙を突破して進士の教養を備えたやつが役人に出世した。

キプチャク・ハン帝国だって税収さえ確保されてれば民の宗教やら出自やらにはたいした関心を示さなかった。

西欧が隆盛する以前の諸帝国においては現在の世界におけるほどには「民族」「国民」はアイデンティティの所在ではなかった。

 

しかし現代では「民族」という神話は「民族浄化」の名のもとに虐殺を引き起こしたり、または旧ソ連の地域あたりで泥沼な内戦を起こしてみたり、または日本においてでも、不況に陥ってみんながストレス溜まってドン詰まってくると韓国人や中国人を口汚くののしって日本のすばらしさを語る「言論人」の人気が上がったりする。

 

ナショナリズムを信仰している人にとっては「私とは何者か」というアイデンティティの根本部分が「私は日本人だ」という命題で構成されている。

彼らの精神世界においては「私=日本の領土=日本の歴史」なのだ。

だから彼らは「イチローはすごい。イチローは日本人だ。だから同じ日本人である俺もすごい(!?)」と思考する。

それでイチローが活躍すると喜ぶ。同じ日本人として誇らしい、とか言う。おめでとう。

 

ナショナリズムを信仰すると民族の評価や国家の評価がそのまま自分の評価と無媒介で直結することになる。

だからオリンピックで金メダルが少ないと怒ったりする。

現実の自分は仕事でもうだつが上がらないし、出世もできないし、皆からもあまり尊敬されていない、部屋でねっころがって酒を飲んでクダを巻いているだけのツマラナイ人間なのだ。しかしこの現実は受け入れられない、本当の自分はもっとスゲーやつのはずだ、本当の俺の才能はもっとすごい。

そうだ、「自分=日本」だといういうことにしよう。

すると、一生懸命に頑張っているアスリートが金メダルを取れなかったからと言って怒ることになる。日本の恥、とか言っちゃう。

または天才アスリートが超人的な記録を打ち立てると喜ぶ。なぜなら同じ日本人だから彼の成果は自分の成果でもあるのだ。

外国人が日本のトイレの技術だとかエンジンの技術だとかを誉めると喜ぶ。なぜなら自分が誉められたように感じるからだ。

しかし実際には自分は高校ていどの理科と数学の教養もないし、エンジニアリングの技術もないのだ。

そして日本の経済規模が世界の中で影響力を失いつつある21世紀の現実が許せない。あたかも自分の価値が下がったかのように感じるからだ。

さらには日本を追い抜いてしまいアメリカをも飲み込もうとしつつある中国の経済発展が許せない。

そして韓国や東南アジア諸国が経済的に目覚ましい成長をしていることも許せない。

「他人に追い抜かれた」ように感じるのだ。なぜって国家の経済規模を擬人化してしか理解できないからだし、かつ、経済規模の序列をドラゴンボールの戦闘力の序列だかのようにしかイメージできないからだ。

 

ナショナリズムのイメージがついただろうか。

本当はフランスのようなナショナリズムの類型も存在し、「言語化された国家の理念に忠誠を誓う」というタイプがある。これは民主主義のイデアを純粋化させたようなタイプであって、日本のナショナリズムやドイツのナショナリズムとは少し毛色が異なるのだが、しかし入試の現代文にはまず出てこないのでここではオミットさせていただいた。

 

オリエンタリズムナショナリズムの議論をアイデンティティから派生させる展開はベーシックなので高校生のキミらもきちんとおさえておいていただきたい。

入試現代文をにらむならば、このあとグローバリゼーションとジェンダーと宗教テロに話が進むのが自然だが、次回に続く!!

 

次回は「資本主義批判」だよ。

どっとはらい。ばいばい。

今日のキーワード復習……

アイデンティティ、 ナショナリズム、 オリエンタリズム

 

文責 ふじい

入試現国の制覇へもどる

ホームへもどる