入試現国の制覇 第3回「無意識とアイデンティティ」

入試現国の制覇 第3回

忙しい高校生のためのまとめ

 

Q 「アイデンティティ」ってなんスか

A 「自分が自分であるという確信」だよ。ふつうは意識できない

Q 自分は自分でしょ? 確信なんていらないじゃん。どう間違えるわけ?

A 間違えないよ。誰も間違えることができないんだ。そして入試現代文に話題を限定するかぎり、そこが問題の核心なんだよ。

Q は? なにも問題じゃないじゃん?

A 「間違えることができない」という点が問題なのさ。

Q ??

A たとえば今ここに、「神が存在するかもしれないし、存在しないかもしれない宇宙」が仮にあったとするよね。

Q うん。いるかもしれないし、いないかもしれないわけね。

A ここにおいて、この架空の宇宙の中に特殊な人がいたとして、彼は「「神がいないと間違えること」ができない人」だったとしたら、どうだろうか?

つまり彼は「神は存在する」と生まれたときから知っていて、この確信を疑うことができない、「「神はいない」と間違えること」が先天的な限界として禁じられているんだ。

 

Q は? 神は存在するか、しないか、わからないんでしょ? 「神がいないと間違える」ってなに? 「神はいない」という命題が間違っているのか、正解なのか、誰にもわからないじゃん。

A まちがう、とは何だろうか? キミは本当に「まちがう」の意味を知っているのか?

Q は?

A われわれホモサピエンスは「「「自分なんていない」と間違える」ことがでない」人たちなんだ。

Q まって、わかんない。

A この「まちがえることができない」という先天的な欠陥のせいで、ホモサピエンスの社会にはいろいろな問題があるんだよ。入試の現代文ではこの問題系の議論は多いよ。

 

今日のキーワード

アイデンティティ、 ナショナリズム、 オリエンタリズム 

 

「アイデンティティ」とは何だろうか。

時間に注目するならば「過去から未来まで一貫した「わたし」についての虚構のストーリー」だよ。この虚構はあまりに強固なものだから、頭でわかっていても我々ホモサピエンスにはそれが虚構だとは認識できない。

 

たとえば大学を選ぶときに本当は「偏差値の序列と世間体のウケの良さ、それから科目の少なさ」でもって私立○○大学の法学部を選んだとするだろう。

偏差値の序列も世間体も大事だよね、それに少ない労力で高い名声が得られるならお得じゃん、ぜんぜん立派、がんばんなよ、だけど彼はそうした自分の大学選択の基準を「なんとなく低俗でダサいな」って誰にも何も言われてないのに勝手に思ったとする。さらには「俺は俺の基準に照らしてダサいような行動はしないし、俺はイケてる奴だ」という自己イメージもあるとする。

するとどうなるか?

 

われわれホモサピエンスの自我は「自分に都合の良い虚構のストーリー」を過去にさかのぼってねつ造するんだよ。

つまり「わたしは私の基準に照らして低俗じゃないしダサい行動もしない、私はイケてる奴だ」という自己イメージと、「だけど現実として最小限の労力で最大限の名声をえることにしか興味がない」という自分の価値観に合わない行動と、このふたつがあたかも矛盾していないかのようなストーリーを、自分のためにでっちあげる。

 

たとえば「じつは思い返してみると私は小さなころから社会の不正などに関心があって、受験勉強を始めてみたら世の中の矛盾点にも目が行くようになった、そうだ、将来はジャーナリズムに進むことが目標になったので、ぜひともジャーナリズム業界に多くの著名人を輩出している名門○○大学法学部に進学しなければならない、私はもともと「そういう奴」なのだ」とか、とか。

 

ね、過去から未来まで一貫したストーリーでしょ。しかしこの「時系列の一貫性」は実のところ、たったいま急ごしらえで、過去に遡ってねつ造されたんだよ。

我々ホモサピエンスはこのようなやり方でしか世界を構築できない。このやりかたの外側に「本当の純粋な動機」だなんてものが、あるのか、ないのか、わからない。

 

アイデンティティは空間に注目するならば次のようになる。

「自分で自分を何者とおもっているか、そして他人から何者と承認されたいか、くわえて現実のところ他人から何者だと承認されているのか」という地政学。

 

たとえば犯罪をして捕まると「田中タクヤ氏(23)自称ミュージシャン」だとかテロップが出るよね。

ポイントは「自称」ってところでこの「自称」という言葉の真に意味するところは「だれもお前のことをミュージシャンだなんて認めてねーよ、自称乙(笑)」っていう承認欲求への死刑宣告だよね。

つまり田中タクヤくんのアイデンティティは「俺はミュージシャンだし、他人からもミュージシャンだと認められたい」というものだけど、しかし現実には誰もお金を払ってまで彼の音楽を聴きたくはないんだよ。アイデンティティはうまく機能してないね。

 

アイデンティティのイメージがつかめただろうか。もうひとつたとえ話をさせていただきたい。

キミら十代は今のところ学校の成績がわるくったって気にしない。大人からなにを言われてもさして気にならない。実のところ異性にモテなくてもあまりツラくないし、受験生になって偏差値が思うように伸びなくても心のどこかで「でも大丈夫」だとか思っていたりする。

現在の自分がしょぼくてみじめで、なんの取り柄もない落ちこぼれだとしても、不思議とそれほど焦らない。十代とはそういうものだ。学校の先生から叱られても親から説教されても痛くもかゆくもない。うるせーなー、何にもわかってねーくせに、としか思わない

 

なぜだろうか?

答えは「キミら十代は現在の自分を「本当の自分ではない」と幻想しているから」だよ。「本当の自分」、このへんがアイデンティティの議論だよ。

 

キミら十代の幻想世界の中では「本当の自分」は未来にいる。たぶんイメージとしては20代後半から30代くらいのころの自分が「本当の自分」なのだ。

 

キミらの幻想の中の「未来の本当の自分」は「本当の能力」を発揮していて、それゆえ「本当の自分の才能」にふさわしい「本当の評価」を受けている。そして人々から尊敬されて社会の中で活躍している。

学校の成績なんて「まちがった評価のシステム」だし、偏差値だって「不完全でゆがんだ評価のシステム」だから、こんなものでは「本当の俺の能力」を計測できていない。

社会にでて働いて正当な評価を受けているはずの「未来の本当の自分」から比べれば、現在の自分なんて、ちょっとした仮の姿だ、「本当の俺」はもっとすげー、だから「大人はなにも分かってねーくせにガチャガチャうるせー」のだ。まだ本気を出していないだけ。「本当の自分」はこんなもんじゃない。

世の中のシステム(つまり偏差値というシステム)が歪んでるから本当の俺の才能を評価しそこなっているだけだ。だけど社会に出て働き始めれば、だれもが俺の「本当の能力」を評価するに決まってる。

だから「学校の勉強なんてなんの役に立つんだよ」とキミたちは言う。「学校の勉強なんてただのパズルで意味がないけど、本当の仕事での評価なら自分は人類の上位10パーセントくらいに入る」と幻想している。まだ働いたこともないのに。おめでとう。おめでとう。

 

だから学校の先生から叱られても「自分」は傷つかないし、親から説教されても「自分」には関係ない。キミら十代にとって現状の自分がうだつのあがらないボンクラである現実など、どうでもいいことなのだ。だって「本当の自分」は輝かしい未来の可能性の中にいるから。

 

キミら十代の高校生にとって一番言われたくない一言はたぶん次の一言だ(とオジサンは予想する)

 

「どうせお前は何者にもなれないし、たいした事も成し遂げないよ、18なんて脳ミソの成長がピークを終えた年齢にもなってこの程度の能力なのだから、もう伸びしろがない。お前ていどの奴は見飽きたよ」

 

この言葉が十代の精神を逆なでする理由は未来にいるはずの「本当の自分」を全否定されているからだ。

自分にはまだ未開拓の可能性があると幻想していたのに、そんな可能性はねーよ、と自己イメージを否定されるから不愉快なのだ。

じつは「自称ミュージシャン」と「自称」のスティグマを張り付けられた田中タクヤくんの苦しみと似た構造になっていることに気がついただろうか。

 

アイデンティティとはなんだかイメージがつかめてきただろうか。

ポイントは「本当の自分」、「間違えることができない」、「他人に否定されると理屈抜きで心臓が燃えるようにムカつく」、ってことだよ。

そしてもちろん「自分」なんて幻想だ、ってことね。

この瞬間に呼吸して瞬きして心臓をどくどくやってるホモサピエンスの身体だけが在るんだよ。言葉で指示した「自分」ってのは必ず幻想なんだけど、しかし我々は「自分がいないと間違うこと」ができない。

これは先天的な限界で、「私がいない」という状態がどんなことだか、我々にはイメージできない。それは「空間」や「時間」のない宇宙をイメージできないという先天的な限界に近い。だけど実際には宇宙には時間も空間もたぶんない。

 

アイデンティティの続きをもう少し原義に立ち戻って追いかけてみよう。

もともとは心理学者のE・エリクソンとういう人が提唱した概念で、アイデンティティというテクニカルタームは「発達心理学」という分野と不可分の関係にある。

というか発達心理学のフレームワークそれ自体がアイデンティティという概念を中心に成立している。白米がないと和食が成立しないようにアイデンティティの概念がないと発達心理学が成立しない。

 

本来なら辞書的な意味におけるアイデンティティの説明をするべきだけど、しかし実際には、エリクソンという人がどんな人生を歩んだのかをサラッと眺めてしまった方がアイデンティティという概念の理解に役立つ。

エリクソンは1900年代の頭頃にドイツ帝国で生まれたのだった、ユダヤ系の血を引くユダヤ社会の家庭で育つが、しかし見た目は完全に白人、そこでユダヤ人からも差別されるし、ドイツ人からも差別される、「自分はどこに所属する何者なのか」といじいじ悩む。

その後、知能が高くて感受性が豊かでかつ内向的な青年にありがちな当然の流れとして、彼は芸術家として生きたいと願った。しかし彼は画家としてはまったく世に認められず、才能の壁に絶望、失意のうちに放浪し、いつの間にか私学の教員職にもぐりこむ。そしてそこにいたアンナ・フロイトに弟子入りして精神分析屋さんになったのだった。だから実は大学の学位を持っていない。

ナチスがドイツを掌握するとほかの多くの知識人と同様にドイツを離脱、アメリカの地に降り立った。英語がしゃべれないのに精神分析の診療所を開業、英語があまりしゃべれないままカウンセリングを強行する。

なんやかんやあって偉大な「アイデンティティ」の理論を確立し、晩年はルターやガンジーなどといった宗教家の人生の研究を行い、そのままアメリカの地で没したのだった。あーめん。

 

エリクソンの人生をさらりと眺め、ここでアイデンティティを理解するうえで大事なポイントは「どこのコミュニティからも差別されて所属する群れがない」という体験をしたことがある点、

そして「芸術家として生きて他人からも芸術家と認めてほしかったけど、才能の不足がそれを許さなかった」という青年期の挫折、

さらには「価値観も言語も全く異なるアメリカの地に、わりといい年になってから移住した」という経験。

これらすべてが彼のアイデンティティの安定を強烈に脅かし、場合によってはアイデンティティを破壊してしまったにちがいない。そのたびに新しいアイデンティティを再構築し、エリクソンは人生に適応していったのだ、たぶん。

「自分は何者なのか」「何者だと他人から認められたいのか」「世界はどのようであるのか」という根本的な世界像の破壊と再創造を何度も要求されたのだ。彼の個人的な経験がアイデンティティという概念の誕生に寄与したことは想像に難くない。

 

反対に死ぬまでアイデンティティが揺らがない人とはどのような人か。ちょっと思考実験してみたい。

たとえば小さいころから母親から「偏差値の高い奴が一番えらい」という価値観を与えられ続け、この価値観を内面化して思春期を終えるや、そのまま自身の価値観に疑いを持たないで過ごし、受験エリートとして勝ち組の道を歩み続ける、

つぎは就職エリートの勝ち組になり、さらには出世エリートの勝ち組になる、ああ、やっぱり俺は勝ち組だった、年収もいいし、社会的地位も高いじゃないか、ほかの奴らは努力が足りない怠けものか、または努力しても結果のついてこない低知能のチンパンジーどもだったのだろうよ、

さあ、俺の息子にも受験エリートになってもらわなければ困る、そうしないと負け組だからな。

 

こんな感じ。

人生の最初の方で大人たちから与えられて構築した世界像、そのたったひとつの世界像だけで困ることなく、そのたったひとつの世界像をごりごり押し通して人生をそのまま終えられるような幸福な人がいたとする。

彼のアイデンティティは揺るがない。なぜなら彼の抱いている世界像の中においては彼は「成功者」「正義の味方」「勝ち組」の側にイメージされており、そして彼の「俺は成功者だ」「俺は正しい」という自己イメージは危機にさらされた経験がないからだ。やったぜ。おめでとう。

つまり彼のアイデンティティは適応戦略の上でうまいやりかただったのだ。

 

アイデンティティが環境に完全に適応している状態を「アイデンティティが安定している」という。

反対に「私は何者か」「私は他人から何者とみなされたいか」「世界はどのようであるか」といった根本的な価値観が不安定だと、世界がぐにゃぐにゃと不定期になってしまい、人は部屋に引きこもって動けなくなる。

このような状態はふつうは「アイデンティティの拡散」「アイデンティの危機」と呼ばれる。

さてアイデンティティのイメージは掴めてきただろうか。

 

ここから精神分析系の議論に進んでもよいのだけど、しかし入試の現代文をにらむのならばキミらが理解するべき概念は「オリエンタリズム」と「ナショナリズム」のふたつになる。

どちらもアイデンティティ(「私は何者か」「世界はどのようであるか」)が根っこにあるから確実に理解してほしい。

 

まずはオリエンタリズム

「オリエント」とは東方のことであり西洋から見た東、すなわち非キリスト教圏はすべてオリエントに当たる。

たとえばサッカーのアジア大会とはどこの地域か知っているだろうか。

エジプト、シリア、アラブ首長国連邦といったイスラム地域、そしウズベキスタン、タジキスタンにカザフスタンといった中央草原、からのイラン、インド、パキスタンといったモンスーン地域の南アジア、さらにはオーストラリア、ニュージーランド、ポリネシアにメラネシアなどの太平洋の諸島、そしてタイ、ベトナム、マレーシアなどのアセアン地域、はては韓国や日本の極東まですべて「サッカーアジア大会」の参加者なのだ。

ふざけてるの? そう「オリエント」だとか「アジア」だとかいう言葉とは実際には「ヨーロッパとアメリカ以外の場所」という意味であり、「肌が黄色かったり浅黒かったりしてキリスト教も信じていない未開のサルどもが住んでいる地域すべて」のことを白人は「アジア」と呼んでいるのだった。(アフリカはアジアではない)

オリエンタリズムとは「白人がオリエントを表象するときに無意識のうちに採用している価値観」のことをいう。

ぶっちゃけていうと差別意識。

 

長くなるから次回に続く。次回は入試現代文において大事な大事な「オリエンタリズム」と「ナショナリズム」だYO! アイデンティティを理解していれば簡単だから安心して。

どっとはらい。また次回。ばいばい。

今日のキーワード復習……

アイデンティティ、 ナショナリズム、 オリエンタリズム

 

文責 ふじい

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