入試現国の制覇 第2回
忙しい高校生のためのまとめ
Q 「言語論的転回」ってなんスか?
A 逆に質問なんだけど「コペルニクス的転回」ってなんだろうか?
Q 知ってるに決まってるでしょ、天動説から地動説へと宇宙観が変わったことっスよ。
A そのとおり。「転回」という言葉には「パラダイムが180度ひっくりかえっちまった」という含みがある。
Q すると言語論でもって世界観がひっくりかえっちまった、ということっすか?
A うん。そうだよ。
Q どゆこと?
A 具体的には「先にモノが在るから、だから後から名前を付けた」という素朴な世界観から脱皮したんだよ。
Q わっつ?
A 反対に考えるんだ。「先に名前をつけたから、だから後から、あたかもかモノが在るかのように我々には認識される」と因果を逆転して世界をイメージするのさ。
Q どんな利点があるんスか?
A 大学入試の現国に限って言及するならば、このあとに登場するほとんどの概念が言語論的転回をベースに理解することができる。本質主義と構築主義、ジェンダー、ナショナリズム、オリエンタリズム、とか、とか、いろいろね。前回のニヒリズムと今回の言語論的転回でもって、入試の国語はほとんど理解できるよ。
今日のキーワード
言語論的転回、サピア・ウォーフの仮説、本質主義と構築主義、意味論と統語論
アダム命名観という言語観がある。現代では多くの人によって信じられていない素朴な言語の理解だけど、しかし現代の多くの人が「アダム命名」を信じていないからと言って必ずしも「アダム命名」が間違っているということにはならないね。
1000年後の未来人からみたら我々だって「昔の人」なのだから、我々から見て1000年前のホモサピエンスどもが太陽神なんかを信じて処女の生贄を殺して喜んでいたように、現代の我々だってひどくまちがった愉快な信仰している、という可能性は十分すぎるほどありうるね。たとえば貨幣に価値があると信じている、とか。
で。アダムによる命名とは何か。
それは聖書の記述に由来する。
神の偉大なる力によってアダムの前には世界中の動物が集められたのだった、ここにおいて神はアダムに仕事を与える、いわく「目の前の動物たちに名前を与えてやるがよい、お前が名前をつけていい」って。
はい、たしかに承りました、ってことでアダムはせっせと名前を付けていく、おまえはガチョウ、キミはヤギ、こいつは熊であの子がコモドオオトカゲ。
つまり「アダム命名」観の根本において信仰されている世界観とは次のようになる。
「まず先に、ホモサピエンスが名前を付けるよりも先に、そもそも宇宙に動物は存在していて、動物は人間によって認識されなくても宇宙にそれ自身として存在できる。
もし仮に進化の結果として人間が現れなかったような架空の地球があったとしても、それでも「ライオン」や「さかな」や「ウツボカズラ」は地球の上に存在しているに決まってる。
人間によって観察されて名付けられたとしなかったとしても、それでも動物が存在できることは自明だし、彼らはたとえ人間が現れなかった架空の地球においてすら、のしのし歩き回ったりメーメー鳴いたりにゃあにゃあ言ってセックスすることができるのだ。
そして後になってから、人間が現れて、すでに存在している動物たちに、まるでラベルをぺたぺた張ってくみたいに名前をつけていったのだ」
つまり「先にモノがあって、だから、あとから名前を張り付けていくのだ」という言語観。あまりに素朴な感覚なので21世紀では信じている人はほぼいない。
ここでちょっと「アダム命名」観への反例がないものか、いじわるな例を挙げてみる。
たとえばチョウチョとガとを考える。
広辞苑でチョウチョとひくと「チョウ科のうちガでないほう」みたいな説明がしてある。反対にガを調べると「チョウ科のうちチョウでないほう」みたいな説明がしてある。なにそれ意味わかんねーんだけど。ふざけてんの?
さらにフランス語においては「パピヨン」という単語しかなく、そもそも彼らは蝶と蛾とを分けないらしい。強いて言うなら「昼のパピヨン」「夜のパピヨン」みたいに区別をつけるのだとかいう。
ここにおいて、「本当は蝶と蛾との二種類が宇宙には存在するのに、フランス語は間違えてパピヨンとだけ呼んでいるのだろうか?」 もしくは反対に、「本当は宇宙にはパピヨンしかいないのに、日本語がまちがえて蝶と蛾とに分けているのだろうか?」
「言語論的転回」ならばこう考える。
「蝶と蛾というふたつの名前をつけたから、だからあとになって、あたかも二種類の虫が最初から存在していたかのように、我々には認識されるのだ」と、逆転させて世界をイメージする。
それが言語論的転回。
なにが転回したのか? 認識の正当性の根拠が「客観的な物体」から「わたしの言語」にコペルニクス的に転回したのだ。ぴーす。
さらに例を考える。よくある例に虹の色がある。
虹は何色だか知っているだろうか?
じつは虹を七色に分けたのはみんな大好きニュートンさんで、なぜだか現代日本語の空間においてはニュートンの七色の分類が広く浸透している。しかし古代の日本語の文献の中では明らかにあお、しろ、あか、の3色くらいにしか分けていない。
そもそも物理的な波長に厳密に従うのならば電磁波のエネルギーのジャンプはプランク単位ごとに起っているはずなのだから、色の波長はほぼ無限のグラーデーションによって変化しているはずであって、これを七色に分けたのはニュートンの恣意的な好みの問題にすぎない。
実際問題として沖縄語では虹は二色だか三色だし、ロシア語では五色前後で適当に終わらすし、アフリカの部族の多くの言語おいても三色だか四色で済ませている。
「本当は」虹は何色なのだろうか?
「本当は」七色なのに、多くの言語が間違えて数えているのだろうか?
それとも「本当は」三色なのに、ニュートンが間違えたのだろうか?
または「本当は」何万色も何億色もあるのに、ホモサピエンスの目玉では七色に分けるのが限界なのだろうか?
「本当は」虹は何色なのだろうか?
「言語論的転回」ならばこう考える。
「まず先に七色で名前を付けてしまったから、だからあとになって、あたかも最初から七色に分かれていたかのように我々には見えてしまう。
そしてさらにその後から、物理的には七色より波長は多い、などと言葉で言ってしまったから、その瞬間に、過去にさかのぼり、あたかも最初から何万色もの色のグラデーションであったかのように認識されてしまう。
つまり名前を付けるより以前に「本当の色」などありはしなかった。だから「本当は」何色か、などと問うことそれ自体がナンセンスなのだ」
なかなか強引な議論の進め方だけど勘所はわかってきただろうか。
べつにキミが言語論的転回を完全に信じたりはしなくていいけど、この議論のスタイルだけは覚えておいてほしい。
「名前を付けたから、その名前を付けた瞬間に、あとから時間をさかのぼり、あたかも最初から世界が秩序をもっていたかのように我々には認識される、名前を付けるより以前に「本当の宇宙の姿」などありはしない」というアクロバティックな議論の進めかたがポイントだよ。
最後にもう一つ例を挙げて次に進む。
たとえば古文の助動詞について考える。
古文の助動詞には「推量」の助動詞がいやに多いことに気がついていただろうか。
む、むず、べし、じ、まじ、らむ、らし、めり、けむ、とか、とか。とくに「めり」だとか「らむ」だとかにおいては、もはや現代日本語にそれに対応する言葉がみあたらない。さらには「ぬべし」だとか「てむ」だとかの助動詞の複合コンボすらが炸裂し、細かいニュアンスを表現しさえしてくる始末。
なぜ、こんなにおおくの推量の助動詞だとか言い回しだとかが必要なのだろうか?
答えは「平安の貴族は実際にわれわれより多くの推量の「感情」を持っていたからだ」と考えるのが合理的だね。
偏差値が45より低い中学生は「うぜー」と「やべー」と「まじムカつく」の三単語のみでほぼすべての彼らの感情を表現しつくす。微妙なニュアンスの違いは「まじムカつく(笑)」やら「まじムカつくんですけど(真顔)」などの抑揚のちがいでもって表現する。
我々から見るとボキャブラリーの少ない中学生がそうであるように、おそらく、平安貴族から見ると現代日本語話者のわれわれは推量の感情に関してひどく語彙が少なく、それゆえ彼らより内的世界が貧層なのだ。
語彙の多さとはそのまま世界の豊かさであり、ボキャブラリーの貧困とはそのまま知性の低さに直結する。
「うざい」と「やばい」しか知らない中学生が彼らより語彙の多いわれわれの考えていることを理解できないように、まったく同じ仕組みでもって、推量についてボキャブラリーの少ない現代日本の我々は、平安貴族が見ていた感情世界を理解できないにちがいない。
それはたとえばコウモリが超音波で見ている世界を我々は体験できなかったり、またはイヌが嗅覚でもって見ている世界を我々は体験できなかったりすることと本質的には似たようなやり方でもって、我々は平安貴族の見ていた感情世界を追体験できないのだ。
母語が違うとはそういうことだ。言語論的転回に従うならばそうなる。
ポイントは「世界の正当性の根拠は客観的な物体にあるのではなしに私の言語にある」と認識の重心をシフトしてみること。
さて、ここから高校生を苦しめる「本質主義・構築主義」の話にうつる。
入試現代文では必ず狙われるよね。
ポイントは「言語でもって名付けられる以前に「本当の世界」なんてなかった、名付けたその瞬間に世界が分かれ、あたかも、名付けられる以前から世界が分かれていたかのように我々には認識されてしまう」という議論の進め方のテクニックだったね。
申し訳ないのだけど今回もたとえから議論に入る。
おおくの哲学者や思想家がひっかかってきた問題系として「本当の愛とは何か」やら「本当の善さとは何か」やらといった問題系がある。
答えておくれ。本当の愛とは何だろうか?
「本当」を探し始めると我々は必ず「~~ではない」という否定形によってのみしか対象を指し示すことができなくなる。
たとえば本当の愛とは、単なる性欲ではない、激しいだけの熱情ではない、哀れみや同情ではない、孤独や寂しさから逃れるために他人を利用しているだけでもない、負け犬同士の傷の舐めあいでもない、など、など。
本当の愛にふさわしくないと自分が信じた要素をひとつずつ省いていくことでしか、我々は望む対象を表現できない。では、いったい、「本当の愛」の「本当性」を担保している正体とはなんなのか、そこを端的に定義してくれよ、と追及されると古代の哲学者たちは答えに窮してしまうのだった。
言語論的転回はここで逆転の発想をする。
いわく、
「むしろ「~でない」「~でない」と否定形を積み重ねるその在り方こそが、言語の本質を示している。
チョウとは「ガでない」のであり、ガとは「チョウでない」のだ。
本当のチョウだとか本当のガだとかが存在しないように、「本当の愛」もありはしない。
「単なる性欲でない」と言明したその瞬間に、過去にさかのぼって、あたかも最初から「セックスへの欲望とはちがった本当の愛」なるものが宇宙に存在した「かのように」認識されてしまう。
だから積極的に本当の愛を定義することはできない。「~でない」という否定を新しく見つけつづける発見の連続によって、常に最新の未来において、始原の過去が改変され続ける。」
さて本質主義と構築主義に入る。入試ですげぇ出るね。
「本質主義」とは「言語に名付けられる以前から本当のそのものが在った」と信じる宗派であって、反対に、「構築主義」とは「言語で名付けられる以前に本当のそのものなんてなかった」と信じる宗派だよ。
彼らはたがいに強烈にいがみ合っていてほとんど対話が成り立たない。だいたいIQの高い人や高等教育を受けたインテリは構築主義の宗派に入信しがちなので入試の現代文は構築主義の文体になっている。選択肢を切るときの目安になるね。覚えておいてね。
たとえば「本当の日本人らしさ」について考えてみよう。
本質主義者こう考える。
「本当の日本人らしさ」は存在する。日本人の本質とでもいうべきものは客観的に宇宙に存在する。
それは机の上にリンゴがあって、夜空の上に月があって、そしてスーパーの棚にブルーチーズが置いてあるように、我々の身体の中には「本当の日本人らしさ」が眠っている。
「本当の日本人」を担保するものはDNAの純血性なのかもしれないし、または連綿とつづいてきた日本語の連続性なのかもしれないし、または世界中から尊敬されていると彼らが信じてやまない日本の技術力の継承と発展なのかもしれないけれど、とにかく「本当の日本人らしさ」は客観的に存在する。
だから「日本」をまもるために中国人や韓国人を排斥しなければいけないし、そして美しい日本語を声に出して読まなければいけないし、昔ながらの日本の価値観を守っていかねばならぬのだ。まる。
構築主義者はこうかんがえる。
歴史の教科書は縄文時代からはじまっており、あたかも一万年も前から「日本」なるものが存在したかのように吹聴している。
しかし普通の人間が普通に考えればすぐに気づくことだが、日本の国境線が定まったのは戦争に負けた70年前くらいのことにすぎない。
一万年も前の段階で、現在の中国にあたる地域と台湾や朝鮮にあたる地域と、沖縄にあたる地域と北海道にあたる地域と、そして日本にあたる地域とで、なにか決定的な文明の違いがあったと考えることはいくらなんでも無理がある。
似たような狩猟採集の100人程度のバンドがぐるぐる蠢いていただけだろうし、なにより言語だって宗教だって現在とはほぼ連続性がないと考えるほうが自然だろ。
DNAだって朝鮮半島を通じてなんどもグチャグチャと大陸と交じり合っており、「日本の純血性」という神話には科学的根拠はない。「本当の日本人らしさ」とは、「本当の愛」のような空想にすぎない。妄想乙、と彼らは言う。
もうひとつ本質主義と構築主義の例を出す。男性と女性のちがいについて。
本質主義者はこう考える。
男性と女性とは異なる、これは当たり前だし、生物学的な根拠があるし、そして脳みその構造も違うのだ。
男性には本質的に向いている仕事があるし、そして男性には先天的にできない仕事もある。たとえばナイチンゲールやマザーテレサ、そしてサリバン先生のような「他人をケアするにあたって偉大な仕事をした男性」というのはまだ出てきていない。
反対に女性には遺伝子レベルで適している仕事があるし、そして脳の構造の都合でもって女性には向いていない学問もある。じつは大きな社会実験によって女性は放っておくと保育士や看護師や小学校の教員といった「他人を世話する仕事」に好んでつく、という結果が得られている。しかし一方で偉大な建築家と偉大な哲学者はいまだ女性から出てきたことがない。
男性はくだらない競争が好きだしバカみたいな暴力が好きだしそして客観的で抽象的な思考が得意だ。反対に女性は心くばりが優れているし、他者のフォローがうまいし、そして感情的なので客観的な思考ができない。
男性が家の外で働くのは理にかなった自然なことだし、女性が家庭を守るのは遺伝子レベルで適切だ。とか、とか。そんなことを言う。
反対に構築主義者はこう考える。
男性と女性とはその能力において違いなんてない。我々が男性と女性の違いだと信じているものは、実際には生物学的な根拠があるというよりは、むしろ社会の暗黙のルールでもってただなんとなくそう決まっている迷信のようなものが多い。
たとえばランドセルの赤と黒、いったい、どうして女児は赤くって男児は黒いのか?
たとえば学生の制服。なぜ女学生はスカートで男子学生はズボンなのか?
そして言葉遣い。なぜ女性と男性とでは社会で適切と信じられている言葉遣いが異なるのかしら?
これは遺伝的な根拠を持っているのか? 数学や科学で仕事をなした女性が少ないのは女性の能力の向き不向きではなしに、むしろ、女性が差別されていたゆえに学問する機会を与えられていなかっただけではないのか? それが証拠に21世紀には女性の数学者や物理学者が増えている。
たしかに文学者や心理学者のほうが多いけど、なんにしろ「男女の違い」は社会的に作られたものであるか、または言語的に作られたものだ、本当は能力や性質に違いなんてない。と、構築主義者はそんなことを強弁する。
本質主義か構築主義か、どちらか一方だけが正しいのだろうか、それとも、双方が少しづつ真理を含んでいるのだ、とかいう玉虫色の見解が真理なのだろうか?
ここまでは主に「名詞」に注目した議論だった。
最後に統語論すなわち「文法」に注目した議論を確認して言語論的転回を終わるよ。
それは「サピア・ウォーフの仮説」という。
サピアはアメリカの言語学者、ウォーフは同国の人類学者、彼らはフィールドワークの結果として次の事実に気がついた。
すなわち南米インディアンのホピ族は言語に「時制をもっていない」、よって彼らの宇宙論には過去がない!!
ホピ族は時間の観念が英語話者とは違うだろうし、宇宙論が根本的に異なるようだ、と推論した。
実は文法が異なれば時間の感覚がちがう、という素朴な事実はわれわれは英語の受験勉強を通じて体感的に知っている。
高校生のキミらも気づいている通り日本語においては英語で言うところの過去形はない。英語で言うところの現在形もないし、未来形もない。もちろん英語の現在完了形もない。日本語には直近の完了形と、すぐ先の意志を表明する一人称の未来形しかないのだ。
日本語で「わたしはマグロを食べる」といったら I eat tuna の意味にはならない。
I eat tuna とは「私には普段からマグロを食べるという習慣がある、そのような文化圏で生活を送っている」という含意がある。それが英語の現在形だ。
しかし日本語で「わたしはマグロを食べる」と言ったら、ふつうは寿司屋でマグロを頼むまさにその瞬間であって、直近の未来について自分の意思を表明しているのだ。
まったく同様に日本語で「母が死んだ」と言ったらそれは英語の my mother died ではない。
英語のほうはただ端的に「過去のある一点において、たしかに母が死んだという事実がある」と客観的事実について述べているにすぎない。
私がどう感じたかという主観は混じっていない。主観を混ぜたいときは助動詞を使うか完了形を使う。
ここにおいて日本語で「母が死んだ」と表現したなら、それは過去形ではなく完了形で、ふつうはその母の死の現場に自分がいた、そして自分が母の死を経験してきた、というイメージが付きまとう。
日本語の表現からは「私の体験」という主観的な臭みがどうしても消えない。
どうにかして英語のように客観的な事実だけを述べたいときは「母が死んだのだった」と断定の助動詞を混ぜることで客観的な雰囲気を演出するが、どこか不自然な言い回しである事実は否めない。時制だけでは表現できないのだ。
この「日本語においてはいかに表現しても必ず「私の主観的な体験」という語り手の体臭がつきまとう」という問題は文学作品の翻訳でも現れる。
有名な「雪国」の冒頭に「国境の長いトンネルと抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」という表現がある。じつはこれは英語に翻訳できない文章としても名が知れている。
日本語の母語話者はごく自然に、この「国境の~」の一文を読むと一人称的な風景を思い浮かべる。なんの疑いもなく「この文章は語り手の独白だろう」と考えるのだ。
映画のシーンにするならば、まずはカメラの目の前にはトンネルの暗闇が広がっており、汽車のガタゴトという振動だけが聞こえる、そしてつぎの瞬間、トンネルを抜けたと同時に突然にカメラの前が明るくなる、雪景色が広がっているのだ、暗と明の強烈なコントラストを自分の主観的な一人称の映像でイメージする。
しかし英語の母語話者にはこの一文が難解すぎて意味が取れない。
実はこの文章には「主語」がない。よってそもそも文型が取れない。この一文を翻訳した英語の母語話者は日本文学研究の第一人者であるはずなのに、彼は苦しまぎれに次のように訳している。
The train came out of the long tunnel into the snow country.
この英文だとふつうの感覚ならば「まずカメラが上空にいて、雪の積もった広い草原の全体像を上から俯瞰している、すると、山のトンネルをぬけて汽車が出てきた」という客観的な映像を思い浮かべる。
主語が「train」であることが決定的な理由だと思う。
しかし日本語の原文の方は、明示的に書いてはいないが、発言の主体が「語り手の私」なのだ。
この暗黙の了解が英語話者にはわからない。
「雪国だった」の「だった」は客観的な過去のナレーションではなく、語り手の主観的な体験を述べる独白なのだ。日本語はどう表現しようとも「わたしからみた主観的な風景」という世界の構造から逃れられない。
時制についても同じであって、英語のように神の視点からカレンダーを眺めるような客観的な時間を表現することに対しては、日本語の文法は興味を持っていない。
日本語の時制は「現在の私が後ろをふりかえったようなょっと過去」と「現在の私が道路の向こう側を眺めるくらいの距離感のちょっと未来」という肌感覚、自分を世界の中心においてぼんやりと前後に広がる時間の厚みに強烈な関心を示す。
サピア・ウォーフの仮説に従うならば「言語の文法が異なるために時間や空間のイメージが異なるし、さらには意識できないうちに前提としている世界観のグランドデザインさえもが根本的に異なる」ということになる。
これも「世界の認識の正当性の根拠は客観的な物体にあるのではなしに、むしろ私の言語の側にある」という文脈でとらえるならば、言語論的転回にほかならない。
ということで今回はここまで。どっとはらい。
今日のキーワード復習……
言語論的転回、サピア・ウォーフの仮説、本質主義と構築主義、意味論と統語論
言語論的転回は入試においてやたら重要なのできちんと押さえておいておくれ。たとえば千葉県なんかでは「高校入試」の作文において言語論的回転が下敷きになったような問題が出ていたよね。ではでは。ありがとうございました。
次回はフロイトの「無意識の発見」の予定だったけど、ちょっと待って、良く考えたら入試において精神分析が扱われる文章を反省してみると、「無意識」はさして重要じゃない、もっと大事なテーマは「青年とアイデンティティ」なのだった! だからそっちををやるずー。ばいばい。
文責 ふじい
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