入試現国の制覇 第1回「神の死と虚無主義」

入試現国の制覇 第1回

忙しい高校生のためのまとめ

 

Q 「神の死」ってなに?

A 善いとか悪いとかいった社会道徳はその根拠において底が抜けていて滑ってる、ってこと

Q 現代文を読むうえでの意義は?

A 入試の現代文に限定するなら「価値の相対化」が一番重要

Q 現代に残る課題は?

A 入試の現代文に限定するなら「虚無主義をいかに克服するか」が残された課題

 

そもそも「将来の夢」とか学校で強制されるの奇妙じゃね?

 

「神の死」に入る前にちょっと違う切り口から話を始めます。

10代の君たちはモノ心がついたころから「そう」なので奇妙だと思わないかもしれませんが、学校において顔の見えないナゾの権力から、

「はやく将来の夢を決めてしまいなさい、そこから逆算して人生設計をたてなさい、ほら、そのためには、いま、勉強しなくちゃいけないでしょ?ね、君にも夢、あるでしょ、夢、大事だもんね、叶えようぜ、夢、だって夢だもんな、叶えなくちゃな、夢、義務なんですよ、夢、もつこと!」

みたいにキラキラした夢を強制されることって、もしかしたら、ひどく奇妙なことかもしれない、と考えてみることもできるわけです。

 

実際問題としておっさんの私は子どものころに学校において将来の夢を言わされた経験はありません。

中高生に将来の夢(というより安定した職業)を言わせたがる、という公教育のあのプログラムは、たぶんニートなんかが社会問題になり始めた最近になってから生まれた新しい伝統だと思う。

じつのところ「将来の夢(というより安定した職業)を10代の学生の口から自分で言わせる」というあの奇妙なプログラムは、学生自身のためであるというよりも、むしろ、大人の不安を軽減するために仕組まれた茶番です

 

ではなぜ「大人の不安を軽減する」のに役立つのでしょうか。ここから現代文の話になります。

その答えはこうです。

「こんなふうに生きたら正解だ。この職業、この結婚、このライフ設計こそ人生の最適解だ。だからお前は黙って年長者の言うことを聞いておけ」

と胸を張って、大人が子供に語ることが、もう、現代においてはできなくなってしまったから、です。

どんな生き方が正解かは誰にも分からなくなってしまったのですが、しかし、なにが失敗かだけは明快です、すなわち世間の大人たちとしては若人たちにニートになって欲しくはないのです、メンドウくさいからね。

世の大人たちは(私も含めて)子どもたちに「人生の正しい選択肢」を示すことができないので(だって自分たちも知らないから)、だから、子どもたちに自分の口から将来のビジョン(安定した職業)を示してほしいわけです。

そうすればあとは応援するよ、がんばって、とか適当に答えておけばよく、「古い価値観を押しつけずに若者を応援する理解のある大人」という居心地のいいポジションを虚構的に演じることができるからです。

 

ここで問題となるのは、では、いったい、なぜ、大人たちは「世の中はこういう仕組みになっているから、だから人生こう生きておけば正解だよ」というロールモデルを若者に示すことができなくなってしまったのか、です。これは日本だけではなくて先進国において共通する現象です。

たとえば昭和のころには確かに「誰もがそれが正解だと同意する人生のロールモデル」が存在していた、らしいです。まさに「いい学校、いい会社、いい出世、またはすてきな専業主婦が大正義で、20代で結婚して、自分の車を購入し、マイホームも購入する、それが出来たら成功した人生だ、ぴーす。それ以外は負け犬だ」というロールモデルです。

 

(こうした共同体の成員に暗黙のうちに共有されている価値体系を体現したプロットのことを現代文の文脈においては「大きな物語」と呼ぶよ、覚えておいてね。)

 

そして現在は「大きな物語は崩壊した」、つまり全員に共有された価値体系はなくなってしまった、一人一人がべつの価値観で生きている、と言及されることが普通です。

もし「この生きかたこそがスタンダードで正しいのだ」という共通の規範が衰退しているというならば、では、十代の若者は「どう生きたら正解」なんだろうか? いろいろな選択肢がある中から、いったい、どうやって「ひとつだけ」を選ぶんだろうか?

 

ひとつ思考実験をしてみる、たとえば今、とある女性が某アイドル事務所の〇〇〇君のことが大好きで愛していて、これは運命の出会いだって確信しているとする。

彼女が45歳になったとき、〇〇〇君への愛を貫くために結婚せずに独身でいて、そしてライブに可能な限り参加するために自由に休みをとれるようにと非正規雇用の不安定な経済基盤を選択し、そして両親と実家で暮らしているとする。

そんな状況で愛する〇〇〇君の追っかけ生活を続けていたとすると、ここにおいて、いったい、彼女の人生は、「いい」のだろうか、「わるい」のだろうか。

もしその生き方が「善い」のだとしたら、なぜ善いのだろうか。もし「だめ」だと感じたのなら、なぜダメなのだろうか。キミの感じた良し悪しの正当性の根拠はどこにあるんだろうか?

(「善いとか悪いとかの正当の性の根拠」、ここが今回のテーマだよ」)

 

たぶんほとんどの十代が「自分の人生だから何が「よい」のかは自分で決める」とか、そんな勇ましいことを、口先では答えるだろう。

しかし口先ではそんなことを言うくせに、実際は、Facebook やインスタグラムに自分の幸福そうな写真をアップして不特定多数の友人から「いいね」って承認されないと不安で仕方なくなるのです。

けっきょくのところ彼らは、「ごく狭い仲間内からの「いいね」という承認」か、世間体、または「貨幣の説得力」か、このあたりに自分の人生の正当性の根拠を求めざるを得なくなるのです。

現代では誰も何に対しても「いい」とか「わるい」とか言えなくなってしまった、という確認でした。

ではでは。いよいよニーチェが「神を殺した」話に入ろうずー。

 

細かい哲学的な知識なんかは入試の現代文では全く必要ないので、十代はざっくりとイメージを押さえておいてください。細かい知識が欲しかったら Wikipedia をググってから、図書館で本を借りたらいいと思う。

まずニーチェおじさんが殺した「神」とは一体、なんなのか。

それはキリスト教の神ですが、ひどく乱暴に要約してしまうと形而上学的な「真善美」のことです。

「なにが真理なのか」「なにが善いことなのか」そして「なにが美しいのか」という形而上学的な部分において、キリスト教徒はみな一致した見解を共有していたのです。

すなわち聖書に書いてあることが真理であり、聖書に書いてあることが道徳的に正しく、そして神の意思に従うものが美しいのです。もし「真善美」の理解がバラバラだったら集団として行動することができずに、空中分解してしまいます。

 

たとえば現代のキミらにとっては「真理の根本」とは「科学的に証明されたこと」であって、「善さの根本」とは「個人の自由を侵害しないこと」であって(なにをしてもいいけど、他人に迷惑だけはかけるな、とキミの母ちゃんは言う)、そして「美の根本」とは「この私に快をもたらすもの」なのだと思います。

そして暗黙の裡に自分が従っている真善美の基準は「ふつうだ」と、なんとなく思っているわけです。

聖書に書いてあることが真理だし、聖書に書いてある道徳こそが正しいし、そして神の意志を体現したものこそが美しいのだ、と強弁して言い張る人を見たら、きっとキミはびっくりするはずです。

そして「自分たちの真善美のほうが、彼らの真善美より正しいだろう、彼らは昔の人だし偏った真善美を信仰していたんだろうな、かわいそうだな」と感じるわけです。

しかしキミらの信じる「真善美」だって宇宙の法則である というよりは、21世紀にだけ支持を集めているローカルな信仰であるにすぎません。

 

たとえばフランス革命でいうと「王の血筋=えらい」という暗黙の信仰を民衆が共有している間は問題はないのです。

「なぜたった一人の人間が武力でもって専制的な 政治を敷いて多く人間を支配していいのだろうか?」という問いに対しては「だって 王の血筋なんだもん。良いに決まってるじゃん」と答えておけば皆が納得するのです。

しかし一度だかれが「王だろうが何だろうが同じ人間だろうよ。俺と何が違うんだよ」という疑問を発してしまい、その疑問が正当性のある疑問として民衆に共有されてしまうと、「王家の血筋だから」とかいう回答では、もう民の不満を抑えることができなくなってしまうのです。

「真善美」とは明確には意識されないままに、なんとなく、暗黙の裡に共有されていなければいけないのです。

 

ニーチェおじさんの思想はあまりにラディカルであったため、「真善美」=「神」を殺してしまい、その後のほぼすべての思想がニーチェおじさんの影響下にあるのですが、さしあたってニーチェおじさん本人が採用した戦略とは、「キリスト教徒の「真善美」のうち「善」の部分を強烈に攻撃する」、というものでした。

「お前らの信じている「善」なんてニセモノだ!偽善なんだ!」と騒ぎまくることでキリスト教倫理を破壊してしまおうとしたのです。

ニーチェおじさんは「ルサンチマン」という概念を使ってキリスト教倫理の欺瞞(と彼が信じたもの)を暴き立てました。

 

「ルサンチマン」とは乱暴にまとめると「集団的な逆恨み」とでも言えるもので、現実には圧倒的に劣位にいる者が、想像の上でだけ、あたかも道徳的には自分が勝利しているかのように考えること、です。

たとえば顔面の不自由な男子高校生が、「だけどイケメンって性格悪いだろ、おれは顔面のつくりにハンディキャップを抱えているけど、しかし性格は良いんだよ」とか言い張る様子に似ています。

顔面が劣っているという圧倒的な現実を無視して、想像の中でだけ、あたかも「性格は自分のほうが優れている」かのように空想することで、自らを道徳的な勝利者と考えるのです。

これは無限に応用がきく戦略であるため人気が高く、たとえば「だけど金持ちってサイコパスがおおいだろ」だとか「だけど偏差値が高いやつって人間としては能力が低いよね」だとか、「だけど若い奴って思慮が浅いだろ、年を重ねることで得るものもあるんだよ」だとか、そんなふうに、数値で圧倒的に示された「自分は劣った存在だ」というむきだしの事実を空想の力でねじ伏せるわけです。

 

ニーチェおじさんが攻撃の的にしたのは聖書の「貧しいものは幸いである」「富んでいるものはわざわいである」、または、「飢えている人は幸いである」「満腹している人はわざわいである」などの道徳でした。

この聖書の文句は常識的な直感を逆転させて聞くものの注意を引いているのですが、ここから、キリスト教倫理の根幹の一つである、清貧の道徳観念が生まれてきます。金をガツガツ求める人間は品性の卑しい人間として道徳的に「敗者」と見なされるわけです。

ここでニーチェおじさんは噛みつきました。

「待てよ、普通に考えてさ、金持ちのほうが「善い」に決まってるだろ、満腹のほうが「善い」に決まってるだろ、「善い」とはそもそも「そのような意味」なのであって、どうして、貧乏だとか空腹だとかが「善い」んだよ、意味が分からねーだろ。

それは劣位にいる負け犬どもが自分に都合のいいように現実を捻じ曲げているだけ(=ルサンチマン)だ。」

 

ニーチェおじさんは続けます。

「肉体的に優れていたほうが「善い」に決まっている、見た目が美しいほうが「善い」に決まっている、知能の高いほうが「善い」に決 まっている、若いほうが「善い」に決まっている、支配者の側であるほうが「善い」 に決まっている。

そもそも「善い」とは「そのような意味」なのであって、自身の力の横 溢を満喫することこそが生物として「善い」ことなのだ(=力への意志)。」

 

「いったい、なぜ、清貧だとか禁欲だとか老いの成熟だとか、そんな「意図的に敗者のように振舞 うこと」が「道徳的に善いこと」とされてしまったのか。

それは、じつは、勝者の側 に立つことのできない大多数の負け犬たちが、想像の上でだけ、あたかも自分たちこ そが「道徳的には勝利している」かのように空想するために、数にものを言わせて「善い」と「悪い」の意味を逆転させてしまったからだ(=ルサンチマン)。」

 

つまり、キリスト教道徳とはすべてがルサンチマンだ、偽善のニセモノだ、これは畜群の負け犬たちによる自己正当化の道徳なのだと、こんなことを言ったわけです。

 

ちなみにニー チェおじさん自身は大秀才ではあったけれど、金もないし地位もないし若くもないし女にもモテないし大学からは追い出されてしまったし、という状況で、自分の理論でもって自分を「負け犬認定」したあげく、だれにも認めてもらえずにボッコボコに無視される、というド M プレイを実行する鋼の精神力の持ち主でした。

ニーチェおじさんのこの考えは好意的に受け止めれば「盲目的に集団の価値観に染まってしまうことから個人を解放し、個人の実存の現場に「善さ」の根拠を取り戻したのだ」とでもいう風に毒を抜いて表現できるので、実存主義のはしりだと評価される場合もあります。

(実存主義とは、ひどく簡単に言うと「この私がいかに生きるか」みたいなことを理詰めで考える哲学の一流派。戦後にヨーロッパで流行ったけれど、しかし最近は古臭いらしくどこでも流行らないし、いまでは「この私が生きづらいんだ」とか「私はここにいるよ」みたいな実存っぽい叫びは、チープなコード進行しか演奏できないロック歌手やボーカロイドがよく歌っている印象)

 

しかし普通に言葉の通りに受け止めればニーチェおじさんの思想はなかなかデンジャラスであって、それは弱肉強食の賛美のように聞こえてしまい、劣ったもの、老いたもの、病んだもの、は負けて死ぬのが当然だ、という、身も蓋もないむきだしの宇宙の事実を、そのまま真理として認めるものでした。

 

見えない敵と戦い続けるニーチェおじさんは「世の中のウソが許せない」「大人は みんな嘘つきだ」というチュウニズムを爆発させ続け、45才で発狂するまであらゆ るキリスト教的な「きれいごと」に喧嘩を売りまくり、ついに、あらゆる作り物の道徳が届かない場所、真理だけのある場所、「善悪の彼岸」にたどり着いてしまします。

この「善悪の彼岸」こそ、21世紀のキミたちの立っている場所に近いのです。

なにに対しても「よい」とか「わるい」とか判断を下せなくなってしまうのです。
(そこで「お金」の圧倒的な説得力だけが残り、子どもに「将来の夢」として安定した職業をを強要することになる、このようにして拝金主義だけが消去法的に生き延びる)

 

自分より前の世代の築きあげてきた価値体系の欺瞞を暴き立てることは楽しいことです。または、現在の支配的な価値体系の虚構性を指摘することも楽しいでしょう。

それはロックンロールであり、ロックは根源的に若者だけの音楽です。だからいつの時代もニーチェは十代くらいの若者に人気なのです。

しかしニーチェおじさんが偉大であった点は神を殺した点ではなくて、むしろ、ただキリスト教道徳にケンカを吹っ掛けてそこで満足したりはしなかった、という点です。

凡百の人間の場合、世間の常識の欺瞞を暴いたら、そのステージにとどまってしまいます。みんなが素朴に信仰している常識のその虚構性を暴き立てることで自分が他人より高い場所まで登ったかのように錯覚し、優越感が満たされてしまい、それ以上より先の、未開拓の風景が視界に入らなくなるからです。

これまで以上に苦しい思いをしてまで真理を掘り進める必要性が、彼にはなくなってしまうのです。

 

しかしニーチェおじさんは真性のど М で自分の自尊心を満たすことよりも真理の探求を優先するという変態であったため、同時代ではまだ誰も見たことのなかった「その先」の風景に直面してしまいます。すなわち「虚無」の風景です。

「宇宙にはなんの目的もない。すべてはただ弱肉強食してるだけであり、この弱肉強食にすら意味はない」、

「人生には神から与えらえた使命はない、つまりこんなに苦しんで生きても最後は死ぬだけだ、あとには何も残らない」、

「醜い者、老いた者、病気である者、知能の低い者、は死ぬまで優れた者に利用され続けるが、しかしそれは神が与えた試練ではないので、ツライ思いをしながら頑張ったからと言って道徳的に優れているわけでもない。」、

自身で見つけ出してきたこの真理と折り合いをつけねばならず、神を殺したあと、ニーチェおじさんは人生の無意味に苦しむことになります。(=ニヒリズム

 

さきほどの例でいうと、ここが「大きな物語」が崩壊した地点です。

「善悪の彼岸」という場所においては個人はあらゆる価値観から解放されて自由といえば自由ですが、しかしその自由を満喫できるものは「強いもの」だけなのです。ほとんどの人にとっては「善悪の彼岸」とは「ニヒリズムの場所」なのです。

現代の多くの人は自由を背負いきれずに「価値観を同じくする小さいコミュニティ」にひきこもって馴れ合うか、または、貨幣で「大きな物語」の穴埋めをしようとします。入試の現代文においてはこの問題系から派生したようなテーマがよく扱われます。つまりは21世紀になってもまだ解決していない問題系なのでしょう。

 

ニーチェ自身はかなりアクロバティックなやりかたでもってニヒリズムの解決法を示しており、それは解決法というよりは、「新しい信仰告白」のようなもであって、ニーチェの出した答えは「永劫回帰」と呼ばれる一種の思考実験のようなものです。

いわく、

「この宇宙には来世もないし、天国もないし、地獄もない、「今回のこの宇宙」だけがあって、「今回のこの宇宙」が壊れた映写機のように永遠に再演され続ける。

目的もなく意味もない宇宙と、救いもなく価値もない人生が永劫にわたってぐるぐるループする、キミは無限回の「この人生」を反復する。始まりもなく終わりもない灰色が永遠に続く。

そのとき無意味に絶望せずに「うむ、なるほど、今回の命はこれで終わりか、それでは、もう一度だ」と言えたなら、そのとき、キミは、すでに世界を超克し終えているのだ」

というような趣旨です(=超人思想)。

 

この「宇宙の真理(?)」に気づいた瞬間をニーチェは「大いなる正午」と呼びました。中二成分に満ちた設定が随所に散りばめられており、さすがは元祖・邪気眼のニーチェ先生、わたしは個人的には好きですが、しかし彼がなにを言っているのかは意味不明です。

 

なんにしろニーチェの放った「神の死」という一撃は決定的であり、それ以後のすべての思想においてニーチェの影響下にないものを探すことは困難です。

21世紀の現在では「ニヒリズム」だとか「神の死」だとかは、もはや「思想」というよりは若者たちの「ポップ文化」のレベルにまで浸透、咀嚼、吸収されきっています。ぺらぺらなポップスの歌詞や週刊漫画のキャラですらが「世界が無意味であること」をさらりと口にしたりするのです。

このように最先端の思想がポップス文化にまで浸透しきるには50年から100年くらいがかかるのが普通です。入試の現代国語ではだいたい40年から20年くらい前までの流行が反映されています。

ではでは、最後までお付き合いいただきありがとうございました。どっとはらい。

今日のキーワード復習 ……

「大きな物語」「神の死」「ルサンチマン」「ニヒリズム」

 

文責 ふじい

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